光秀の長女・倫は、はじめ摂津の大名荒木村重の嫡男村次に嫁ぎますが、天正六年(1586)、村重が信長に叛くと、離縁され、“出戻り”となります。
光秀はその娘を家臣の三宅弥平次に再婚させました。
弥平次は倫の夫になった際、明智弥平次へと名をあらためます。明智秀満としても知られる光秀の重臣です。
本能寺の変後、明智勢は信長の居城安土城を接収しますが、秀満はその安土城の守りを託されます。
ところが、山崎での敗戦を知り、急ぎ坂本城へ駆け戻るのです。
『明智軍記』にしたがいますと、坂本城を焼いたのは「光秀が妻室」ですが、『太閤記』では、秀満が城に火を放ったことになっています。
では、そのとき倫はどうしていたのでしょうか。
秀満は、丹波福知山城(京都府)の城代だったと考えられています。
そうなると、常識的にみて秀満の妻、つまり光秀の長女は山崎での敗戦時、福知山城にいたはずです。
生き残った可能性はありますが、彼女のその後を物語る史料はありません。
一方、光秀の次女は明智光忠の妻になりました。
光忠は光秀の従弟とされ、丹波八上城(兵庫県)を預かった武将です。
つづいて、三女と四女はいずれも信長の指示で、細川忠興と織田信澄に嫁ぎます……。
(つづく)
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