南蛮人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にもとづき、その後の情況をみてみましょう。
元亀四年(1573)三月のこと。
その日、高山父子が高槻城の評定の場に臨もうとすると、彼らが来たら殺す企てがあると忠告する者が現れます。
そこで、父子は屈強な家臣を従え、惟長らが待ち構える評定所へと乗りこみました。
惟長らは高山父子が入って来るなり、抜き身の刀を引っさげて躍りかかり、高山父子らがすぐさま応戦します。
やがて、部屋を照らしていた蝋燭が消え、暗闇の中、大混戦となりました。
蝋燭が消えるや否や、右近は惟長に突進し、二ヶ所に致命傷を負わせました。
しかし、暗闇の中、敵がどこにいるのかわかりません。
右近の家臣が惟長の息子だと思い、その首を刎ねようとした刀が右近の首を斬りつけます。
そのため、右近は首が半ば切断されてしまう重症を負ったといいます。
一方、致命傷を負わされた惟長は、高槻城を捨てて逃走します。
当時、ふたたび織田方に属して信長に摂津の支配を任せられていた村重は、飛騨守に高槻城を与え、その後、右近が城主の地位を父から譲られます。
こうして下剋上を成功させ、主君の惟長を城から追い出したとき、右近は二一歳。
すでに洗礼を受けていたものの、後半生にみられる敬虔なキリシタンの姿からは想像できない荒武者ぶりでした。
(つづく)
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