下剋上を成功させたとき、右近は二一歳。後半生にみられる敬虔なキリシタンの姿からは想像できない荒武者ぶりでした。
しかし、高槻城主になってからの右近は、畿内で最大収容人数を誇る教会を建て、キリスト教の布教につとめます。
結果、じつに領民の七割がキリシタンに改宗したといわれています。
その後、天正六年(1578)になって村重が信長に叛き、居城の有岡城(伊丹市)で挙兵しました。
信長は大軍勢を催し、村重を討つべく、その配下である右近の高槻城を囲みます。
そのとき、信長は「キリシタンを禁制にする」といって右近に降伏を促しました。
このときにも右近は悩み抜き、いったんは武士を捨てる覚悟までしたと伝わっています。
しかし、結果信長の要求に応じる形となり、高槻城は無血開城されました。
また、次の話が右近の人となりをよく物語っています。
信長に叛いた村重は落城後、毛利領内へ逃げ、信長の死後、茶人・荒木道薫として秀吉に仕えます。
その道薫が秀吉と茶席を共にした際、右近の話題になりました。
秀吉が右近の才とその善良さを称えると、道薫は、
「それは上辺だけで心中はかくの如き者ではない」
といいました。右近の人となりをよく知る秀吉はこの道薫の讒言を聞いて激怒し、
「ここを去り、もう二度とそのような発言をするな」
といったというのです。
宣教師のフロイス(前出)の書簡に記載される話ですから、キリシタンの右近への身びいきを差し引かねばなりませんが、それでも、右近が善良な人であったことを否定するものではないでしょう。
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