仇討ちというのは、家臣が主君の、あるいは子が親の、さらには弟が兄のと、上位の者の無念を晴らすのが原則です。
したがって、兄数馬が弟源太夫の仇討ちをおこなう行為そのものが極めて異例だったといえます。
つまり、仇討ちといいつつ、これは上意討ちというべきもの。
縁戚関係にある外様大名を巻きこんだ池田家としては、引くに引けなくなったのでしょう。
しかも、前述したとおり、池田家と旗本の安藤家には互いに遺恨がありました。
その遺恨、じつは戦国時代にまで遡ります。
天正十二年(1584)、小牧長久手の合戦で豊臣方だった忠雄の祖父池田恒興が安藤一族の者らに討ち取られているのです。
合戦での結果とはいえ、当然、両家には遺恨が残ります。
そもそも、旗本安藤家の家臣だった半左衛門が池田家へ助けを求めたのも、両家にはこうした遺恨があり、追手が安藤家だと知ったら、必ず池田家が匿ってくれると確信していたからでしょう。
この“仇討ちならぬ仇討ち”が有名になったのは、赤穂浪士の討ち入りと同じく、こうして両家の恨みが周囲を巻きこみ、公儀である幕府をも騒がす事件になったからです。
(つづく)
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