秀吉も信尹に対して七ヶ条の罪状をあげ、後陽成天皇へ上奏しています。
その七ヶ条のうち、
①朝廷の仕事をおろそかにして朝鮮へ渡海しようとした。
②秀吉への届けなく摂政関白並みに内覧(摂政 ・関白 または宣旨 を受けた大臣 が天皇への奏上文書を前もって読むこと)を所望した
ことなども罪状に挙げていますが、筆者が注目したのは次の点です。
要約すると、これまで関白職は近衛家・二条家のほか、九条家・一条家・鷹司家の計五摂家で「廻り持ち」してきたことは「おかしき次第」だといい、
五摂家では一国も斬り従えられないから、
「(彼らより)少しはましに候はんやと存じ、(豊臣家が関白職を)御請け申し候」
と結んでいるのです。
これは信尹への罪状というより、豊臣家が関白職を世襲することを正当化するための主張です。
豊臣家による関白の世襲を既成事実化しようとする秀吉にとって、関白職にこだわる信尹は邪魔な存在であったはずです。
したがいまして、秀吉が後陽成天皇を動かし、信尹を薩摩へ追いやった可能性も見えてきます。
結局、信尹は二年後の文禄五年に帰京を許されます。
その三年後には秀吉も死去。関ヶ原の合戦後の慶長六年(1601)、信尹は左大臣に復帰します。
そして同十年、関白の座に就きます。
こうして念願かなった信尹は、大坂冬の陣がおこなわれる同十四年十一月にこの世を去ります。
享年50歳。波乱の生涯でした。
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