文禄三年(1594)四月、信尹は後陽成天皇の勅勘をこうむりました。
その理由については、当時の『多聞院日記』が手がかりになります。
そこにはこう記されていました。
「近衛殿(信尹)、よろず御不義なり。内裏も御参もなく、公家衆と参会もこれなく、京中異形にて御注進なり。太閤へのなかなか御出もなし。近衛殿とて崇め申すべき様もこれなく」
参内どころか、公家衆とも会おうとせず、秀吉のもとにも参じないというのです。
こうして政務をほったらかしにして京中を「異形」の恰好で注進して廻り、いかに近衛家の当主だといっても、このままでは、もはや崇められないといっています。
したがって九州の薩摩へ配流されたのだと結んでいます。
この薩摩配流については信尹のライバルである右大臣菊亭晴季の讒言もあったようですが、このように信尹自身に問題がなかったとはいいきれません。
さらに秀吉も信尹の罪状を七ヶ条あげ、後陽成天皇へ上奏するに至ります。
(つづく)
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