公家とのつきあいが苦手だった信尹は、左大臣の官位に就いたのち、天正十三年(1585)、二条昭実と関白職を争うことになります。
信尹が昭実へ関白職を譲るよう求めたのです。
この争いに目をつけたのが秀吉でした。
秀吉は争いの打開策として、いったん第三者である秀吉自身が信尹の父(近衛前久)の養子となって関白に就いたのち、信尹に譲り渡すと提案します。
これで昭実と信尹双方の面子が保てると主張しました。
こうして秀吉は関白に就きますが、結局、信尹への約束は反故にされてしまいます。
それどころか秀吉は、やがて関白を甥の秀次に譲って、秀吉が創設した豊臣家が関白職を世襲することになったのです。
武士に憧れを抱きつつも、やはり摂関家に生まれた信尹としては、関白に就けないことがショックだったのでしょう。
傷心の信尹が自暴自棄になり、近衛家のほか、公家という立場も捨て、武士として生きようと朝鮮への出兵を決意したと考えられます。
しかし、天皇や秀吉の反対にあって、朝鮮に渡海することもかないませんでした。
しかも、一回目の朝鮮出兵(文禄ノ役)が失敗に終わったのち、文禄三年(1594)四月に信尹は、後陽成天皇の勅勘(天皇により処分を下されること)をこうむってしまいます。
いったい信尹は何をしたのでしょうか?
(つづく)
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