本当は実力者だった?「信長の不肖のせがれ」③[家康への信義] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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関ヶ原の合戦をひかえて信雄は、因縁ある清洲城を奪って旧封を回復したらどうかと、石田三成から甘い言葉で誘われ、軍資金として「黄金一千枚」を受け取る約束まで取りつけました。


ここで三成の甘言に乗っていたら、のらりくらりと世を渡ってきた信雄も万事休していたはずです。


さすがに、このときばかりは信雄も、小牧長久手の合戦で同盟を結んだ家康への義を貫きます。


こうして三成の挙兵の誘いを蹴った信雄は慶長十九年(1614)、大坂ノ役が勃発した際には大坂城にいました。


そのころ大坂方では豊臣家の家老片桐且元(かつもと)の去就を怪しみ、彼を誅する動きがありました


そこで信雄はこの企みを且元に告げ、大坂方を捨てて、その足で家康に謁見したといいます。


こうして豊臣家が滅びると、信雄は小幡(群馬県)などで五万石を与えられます。


のちに、この信雄の家系(織田宗家(そうけ)天童(山形県)へ転封となりますが、改易されることなく、無事、幕末を迎えました。


以上、信雄の事績をみてくると、世評どおり、暗愚な武将のように思えます。


関ヶ原の合戦以降こそ、かろうじて信念を貫いたといえますが、前半生は“不肖”ぶりを如何なく発揮しています。


 しかし、意外に実力者だったのではないかと思わせる一面もあったのです。


(つづく)




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