関ヶ原の合戦をひかえて信雄は、因縁ある清洲城を奪って旧封を回復したらどうかと、石田三成から甘い言葉で誘われ、軍資金として「黄金一千枚」を受け取る約束まで取りつけました。
ここで三成の甘言に乗っていたら、のらりくらりと世を渡ってきた信雄も万事休していたはずです。
さすがに、このときばかりは信雄も、小牧長久手の合戦で同盟を結んだ家康への義を貫きます。
こうして三成の挙兵の誘いを蹴った信雄は慶長十九年(1614)、大坂ノ役が勃発した際には大坂城にいました。
そのころ大坂方では豊臣家の家老片桐且元の去就を怪しみ、彼を誅する動きがありました。
そこで信雄はこの企みを且元に告げ、大坂方を捨てて、その足で家康に謁見したといいます。
こうして豊臣家が滅びると、信雄は小幡(群馬県)などで五万石を与えられます。
のちに、この信雄の家系(織田宗家)は天童(山形県)へ転封となりますが、改易されることなく、無事、幕末を迎えました。
以上、信雄の事績をみてくると、世評どおり、暗愚な武将のように思えます。
関ヶ原の合戦以降こそ、かろうじて信念を貫いたといえますが、前半生は“不肖”ぶりを如何なく発揮しています。
しかし、意外に実力者だったのではないかと思わせる一面もあったのです。
(つづく)
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