本当は実力者だった?「信長の不肖のせがれ」①[信長からの絶縁状] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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織田信長の次男・(のぶ)(かつ)の評判は散々です。



本当に評判どおりなのか、彼の実力を探っていくことにします。



まず、通説にもとづいて彼の事績をたどっていきましょう。



天正七年(1579)、信雄は父に無断で伊賀へ攻め入り、伊賀衆の奇襲攻撃によって重臣ら多くの将兵を失います(第一次天正伊賀の乱)。



信長はこの“不肖のせがれ”の愚行に激怒し、絶縁するとまでいいます。



同十年(1582)六月二日に本能寺で父信長が明智光秀に討たれた際の反応はどうだったのでしょうか。



『武功夜話』によりますと、信長の居城・安土城で留守を預かる蒲生賢秀から注進を受け、父の死を知った信雄は悲憤心頭に達し、涙を落とします。



ところがです。



一刻も早く出兵して仇を討つべしという家臣らの声を聴いても即決することなく、



「一両日いたずらに相過ぎ候なり」



つまり、二日ほど無駄に時を費やしたといいます。



そのあと、明智勢が接収した安土城近くまで来たのはいいですが、そこで引き返しています。



一方、信長のもうひとりのせがれ(信長三男の信孝)は、中国大返しに成功した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍勢に合流し、総大将となって光秀を討ち果たしました。



弟(信孝)に後れをとり、信雄はここでも“不肖のせがれ”ぶりを露呈しています。



そんな彼ですが、幸運が訪れます。


(つづく)






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