光圀の一生を簡単に振り返ってみると、一見してなぜ勧善懲悪のヒーローとなったのか理解に苦しむところがあります。
しかし、光圀が善政を敷かなかったわけではありません。
まず貧民や病人に扶持を与えて救済しましたし、借金地獄に陥った領民を救うために高利貸しの金利を一割以下に抑えました。
また、編纂事業に莫大な予算がかかるため、自身、倹約に努めてもいます。
そして、光圀は兄頼重から世子の座を奪う形となったことを悔やみ、兄の子を養子として迎え入れ、次の水戸藩主に指名します。
肉親の者による世襲にこだわらなかったのです。
一方、光圀が五三歳になった年、四代将軍家綱が病死し、五代将軍に綱吉が就きます。
綱吉は、長兄(家綱)と次兄(綱重)が病死したことから、将軍になることができました。
しかも、兄綱重には綱豊という忘れ形見がいます。
したがって、光圀の美意識からすると、次の将軍は、綱吉の兄の子の綱豊でなければなりません。
ところが、綱吉は実子の徳松を世子としました(ただし、徳松は早世し、結局、綱豊が六代将軍家宣となります)。
光圀はこの人事に反対し、水面下で綱吉との不和が進行しはじめるのです。
(つづく)
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