大岡裁きの「虚」と「実」①[三方一両損の真相] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

跡部蛮の「おもしろ歴史学」

歴史ファンの皆さんとともに歴史ミステリーにチャレンジし、その謎を解き明かすページです(無断転載禁止)

江戸・小伝馬町(こでんまちょう)に住む建具屋長十郎は柳原の土手を歩いていて、思いがけず小判両を拾いました。


長十郎は、それが畳屋の三郎兵衛ものだとわかると、四日間仕事を休んで江戸中の畳屋を探しまわります。


そして、ようやく(れい)(がん)(じま)に住む落とし主を尋ねあてます。


長十郎は返そうとするが、三郎兵衛はいちど落としたものだから拾い得にしろといって聞きません


結局、受け取れ、受け取らないで喧嘩となり、家主が町奉行所へ裁量を願い出ます。


すると、奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)奇特なことと感心し、一両足して長十郎三郎兵衛つ渡しました。


長十郎は三両拾って二両もらうから一両損。


三郎兵衛は三両落として二両もどったから一両損


奉行も一両の損。


ご存じ、大岡越前の“名裁き”として有名な「三方(さんぽう)一両損(いちりょうぞん)」の話です


しかし、忠相が登場するまで「名奉行」といえばこの二人といわれた京都所司代の板倉勝重・重宗父子の逸話にも同じような話があります。


つまり、残念ながら、この三方一両損の話は、名奉行と呼ばれる人たちの事蹟として後付けされた話だといえるでしょう。


ともあれ、忠相の名奉行ぶりはその後も語り継がれ、幕末・明治になって『大岡政談』として刊行され、人気を博します。


ところが、そこに収載される話の多くは中国の判例や日本の実録小説などをネタに翻案(ほんあん)・再構成したフィクションだとされています。


 それでは、史実としての「大岡裁き」はどのようなものだったのでしょうか。

(つづく)


※ホームページを開設しました。執筆・出演依頼などはホームページよりお申し込みください。http://officekimoto.jimdo.com/