夫忠興から外出を禁じられていた玉ですが、彼女は夫の命をやぶり、彼岸の寺巡りと偽って天満にあった教会を訪ねます。
その教会で彼女はコスメという修道士に対して、日本の諸宗派の道理を述べ、激論を交わすのです。
そのときコスメは、
「かくのごとく日本の宗旨のことを知り、事理を解する夫人は、日本においてかつて見たことがない」(『イエズス会日本年報』)という賛辞を送りました。
それほど彼女は聡明な女性だったのでしょう。
結局、彼女はバテレンの教えもまた真理だと考え、洗礼を受けようとします。
しかし、時が時だけに教会での儀式をあきらめ、先に洗礼を受けていた侍女(清原マリア)から玉造の細川邸内で受洗するのです。
洗礼名のガラシャには「恩寵=神の恵み」という意味がこめられていました。
こうしてガラシャやマリアをはじめ、多くの侍女や子ども達の乳母も洗礼を受け、キリシタンとなりました。
ところが、『イエズス会日本年報』によりますと、九州から帰国した忠興は、些細な理由で、キリシタンとなった乳母の耳と鼻を削ぎ、追放したといいます。
これまた割り引いて考えなければならない話ですが、こんなこともあって夫婦仲に亀裂が生じ始めたのは事実でしょう。
同じ頃だと考えられる逸話が『綿考輯録』に記されています。
忠興がある日、たいした落ち度もないのに下人の一人を手討ちにして、その血をガラシャの小袖で拭ったのです……。
(つづく)
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