光秀の娘は淑女か悪女か?④[夫婦の亀裂] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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夫忠興から外出を禁じられていた玉ですが、彼女は夫の命をやぶり、彼岸(ひがん)の寺巡りと偽って天満にあった教会を訪ねます。


その教会で彼女はコスメという修道士に対して、日本の諸宗派の道理を述べ、激論を交わすのです。


そのときコスメは、


「かくのごとく日本の宗旨のことを知り、事理を解する夫人は、日本においてかつて見たことがない」(『イエズス会日本年報』)という賛辞を送りました。


それほど彼女は聡明な女性だったのでしょう


結局、彼女はバテレンの教えもまた真理だと考え、洗礼を受けようとします。


しかし、時が時だけに教会での儀式をあきらめ、先に洗礼を受けていた侍女(清原マリア)から玉造の細川邸内で受洗するのです。


洗礼名のガラシャには「恩寵=神の恵み」という意味がこめられていました。


こうしてガラシャやマリアをはじめ、多くの侍女や子ども達の乳母(めのと)も洗礼を受け、キリシタンとなりました。


ところが、『イエズス会日本年報』によりますと、九州から帰国した忠興は些細な理由でキリシタンとなった乳母の耳と鼻を削ぎ、追放したといいます。


これまた割り引いて考えなければならない話ですが、こんなこともあって夫婦仲に亀裂が生じ始めたのは事実でしょう


同じ頃だと考えられる逸話が『綿考輯録』に記されています。


忠興がある日、たいした落ち度もないのに下人の一人を手討ちにして、その血をガラシャの小袖で拭ったのです……。

(つづく)




※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週木曜日)。そちらもぜひご覧ください。