父光秀の謀叛によって、玉は夫忠興に幽閉され、その幽閉生活は二年に及びました。
やがて、彼女は秀吉に許されて忠興と復縁します。
忠興が大坂城下の玉造口に邸をたまわると、彼女もそこに住むようになりました。
彼女がバテレンの教えに触れるのも、そんな大坂時代でした。
天正十五年(一五八七)、夫の忠興が秀吉の九州遠征に従軍し、大坂を留守にしていたときのことです。
忠興は、
「帰るまでは決して外出せざるやう」(『イエズス会日本年報』)
と彼女に命じ、さらに、
「その家臣で大いに信頼せる老貴族二人に夫人を守ることを命じた」(『同』)
といいます。
通説では、偏執的なまでに嫉妬深い忠興が、留守中、美貌の妻を他人に寝取られないために老臣に妻の監視を命じたとされていますが、別の理由も考えられます。
その年、秀吉は遠征先の筑前箱崎(福岡市)でバテレン追放令を発し、キリシタンは受難の時代を迎えました。
そういう時期だけに、忠興は、バテレンの教えに惹かれる妻が教会へ出向くことを警戒したともいえるでしょう。
しかし、彼女は夫の命をやぶり、彼岸の寺巡りと偽って天満にあった教会を訪ねるのです。
(つづく)
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