光秀の娘は淑女か悪女か?②[幽閉の屈辱] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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細川玉が二十歳になった天正十年(1562)、夫婦の危機が訪れます。


父の光秀が主君の信長を京の本能寺で討ち果たしたのち、羽柴(のちの豊臣)秀吉に敗れ、彼女は“謀叛人の娘”の烙印を押されるのです。


忠興は、妻の玉を味土(みど)()という細川領・丹後の山奥に幽閉します。


の通説に対して、彼女は明智領の丹波に送り返され、そこで剃髪したという説もあります


だとしたら、彼女はいったん離縁の上、明智家に送り返されたものの、明智家が滅んだために、ふたたび細川領の丹後に引き取られ、幽閉されたと解釈できます。


いずれにせよ、彼女にとっては屈辱の日々となりました。


このとき彼女は父の光秀に手紙を送り、


「腹黒なる御心ゆえに自らも忠興に捨てられ、幽なる有様なり」

 

 という恨みを書き連ねています。


 父上が謀叛を起こすから、わたしは夫に捨てられ、幽閉されてしまったのよ、と心境を吐露しているのです。

 

そして、彼女はあまりの悔しさに自害しようとしますが、与一郎(嫡男の忠隆)が生まれたばかりだったので思いとどまるのです。

 

 以上、主に肥後熊本藩細川家の家記『綿考輯録(めんこうしゅうろく)にもとづいて述べてきましたが、そこからは、まず、彼女の誇り高く気丈な一面が窺えると思います

(つづく)



※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週木曜日)。そちらもぜひご覧ください。