『綿考輯録』に次のような話が記されています。
忠興がある日、たいした落ち度もないのに下人の一人を手討ちにしました。そして、その血をガラシャの小袖で拭ったのです。
しかし、ガラシャはまったく驚いた様子を見せず、同じ小袖を三日も四日も着替えずにいました。
結局、忠興が折れて彼女に詫びをいれたというのです。
そのとき忠興は「なんじは蛇なり」といいました。
するとガラシャはすかさず「鬼の女房には蛇がなる」と答えます。
罪のない人を殺すあなたこそ鬼、その妻には蛇がちょうどいいでしょうといったのです。
また、類話として、忠興が屋根の葺き替え中に庭へ滑り落ちてしまった職人の首を刎ねた話も記されています。
忠興はその首をガラシャの膝の上に置きました。
しかし、彼女は顔色ひとつ変えなかったといいます。
こうした逸話だけ聞くと、たしかに“悪女”といわれても仕方がありません。
ただ、二人の夫婦生活を振り返り、忠興が妻におこなった数々の仕打ちを考えると、一方的に彼女だけを責められないでしょう。
彼女が夫に服従するタイプの女性でなかったのは事実ですが、誇り高く、気丈で聡明。そして、戦国時代にはめずらしく、はっきりと自己主張をする女性だったのでしょう。
彼女は三十八歳でその生涯を終えますが、その最後はもはや説明するまでもないでしょう。
玉造の邸が石田方の軍勢に包囲されると、彼女は、自害が認められないキリシタンの教えを守り、潔く家老小笠原秀清の手にかかって死を迎えたとされています。
※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週木曜日)。そちらもぜひご覧ください。