戦国三英傑ゆかりの武将の謎⑯[佐和山にて] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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吉継が十八歳のころに発給した書状に「白頭」という号がみえます。


彼が頭巾で顔を蔽っていたことに因む号です。したがって、十代のころ、すでに彼は病に犯されていたのでしょう。


関ヶ原の合戦のころには、視力も失われつつあったといいいます。

 

 

そのとき吉継は、徳川家康率いる東軍に参陣するため、病軀をおし、居城の敦賀を輿に乗って出陣します。


ところが、吉継が美濃国垂水にある平塚為広(秀吉の馬廻り衆出身)の城に入ると、盟友の石田三成からの使者が来て、居城佐和山(彦根市)へと招かれるのです。


佐和山で三成から家康を討つという本心を明かされ、西軍への参加を促されるものの、吉継はいったん断ります。


しかし、三成と吉継が男色の関係にあったという俗説はともかくとして、二人は、互いに奉行として朝鮮ノ役などで辛酸を嘗め合ってきた仲です。


その生涯の友から、


「貴命を我に給わり一所に腹を切給へかし(=貴殿の命をたまわり、それがし、共に死ぬ覚悟でござる)」(『慶長見聞書』)


とまでいわれたら、男として断れません。


そして、運命の九月十五日。


すでに甲冑を着用できないまでに病状が悪化していた吉継は、垂水城主の為広に全軍の指揮を委ね、同時に、松尾山に陣する小早川秀秋(西軍)の去就を怪しんで、抑えの役を買って出たのでした。

(つづく)




※サブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説(「花弁」)を連載しています(毎週木曜日)。そちらもぜひご覧ください。