秀吉は、吉継の”鼻水入りの茶”を、私が飲み干して新しく茶を入れ直すから茶碗を渡しなさいといいました。そして、一気に飲み干すのです。
福岡日南はこの話の出典を示していませんが、子煩悩な秀吉の優しさが滲み出るエピソードといえるでしょう。血縁関係にある者でないと、こうはいきません。
病弱かつ、若輩の吉継が天正十三年(1585)、二十歳で刑部少輔に任じられることも、秀吉との血縁関係をうかがわせる根拠のひとつでしょう。
以降、吉継は朝鮮ノ役で「惣奉行」としての大任を全うし(『太閤記』)、千利休、施薬院全宗という錚々たる面々と共に、『宇野主水日記』に秀吉の側近として紹介されています。
そもそも、吉継という諱は、秀吉の「吉」から取って秀吉自身が命名したと考えられます。これも、隠し子説の有力な状況証拠となっています。
ただ、本当に吉継が秀吉の実子なら、なぜ秀吉は吉継をさておき、甥の秀次を関白に就けたのかという疑問は残ります。
しかし、吉継の母は北政所に仕える東殿。つまり秀吉は正妻の側近に手を出したことになり、嫉妬深い北政所の手前、実子として遇することはできなかったという解釈は成り立ちます。
利休と並ぶ側近だったにも関わらず、吉継が豊臣政権を支える五奉行になれなかったのは、やはり健康問題が影響したようです。
吉継は悪瘡のために一年中、頭巾で顔を蔽い、真夏でも素顔をみせなかったと伝わります。
『校合雑記』(前述)には「らい病(ハンセン氏病)」を患い、引きこもっていたと記されていますが、本当に吉継がらい病を患っていたかどうかは不明です。
しかしながら、吉継が十八歳のころに発給した書状に「白頭」という号がみえます。その号は頭巾で顔を蔽っていたことに因みます。
十代のころ、すでに病に犯されていたのでしょう。
(つづく)
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