東大寺の大仏殿焼失は、夜討ちの混乱の中の失火、それも久秀の敵方である三好勢の失火が原因だったようです。
一方、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、失火ではなく、三好方による放火だったという話が掲載されています。
切支丹の三好方の兵が見張りの番に立ったとき、キリスト教からみたら異端となる仏教の偶像(大仏)へ、信仰心から放火したというのです。
混乱に乗じ、切支丹が放火した可能性はないとはいえません。また、それが失火のようにみえたのかもしれません。
放火か失火か――。
いずれにせよ、これで久秀の嫌疑は晴れたことになります。
ただ、夜討ちを仕掛けたのが久秀だったことから、話は捻じ曲げられて伝わり、たまたま命日と大仏殿焼失の日が同じだったため、多聞院英俊(前出)の“仏罰説”がその後、流布されることになったのではないでしょうか。
しかし、久秀が生前、疑惑を否定したら、これほどまでの悪評は防げたはずです。
久秀はこのとき三好勢に居城近くまで攻められ、苦戦していましたが、やがて上洛した織田信長に茶器の名物・九十九髪茄子を献じて臣従し、難局を乗り越えます。
その信長があるとき、徳川家康の前で久秀の悪行を並べたて、痛罵したことがあるといいます。
その際、久秀は怒りで顔を赤らめたものの、反論はしなかったというのです(『備前老人物語』)。
あくまで逸話ですが、久秀の悪評をばら撒いた張本人は信長だったことになります。
一方の久秀は悪評も器量の内だと思い定めていたように思えます。
世間の評判と実像が大きくかい離し、彼ほど歴史家泣かせの武将もいないのではないでしょうか
(つづく)
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