東大寺大仏殿焼失の”容疑”については、“冤罪“といってもいいものでした。
まず、事件の経緯を確認しておきましょう。
久秀は将軍弑逆後、三好三人衆と幕府・畿内の支配権を巡って対立します。
そこで三好三人衆は永禄十年(1567)十月、久秀の居城のひとつ、多聞山城(奈良市)を攻め、東大寺に本陣をすえました。
そして、大仏が焼失する運命の十日のこと。
『足利季世記』によりますと、午後九時頃、久秀は三好勢へ夜討ちを仕掛けるのです。
三好方はこの奇襲に慌て、名のある武将七名のほか、雑兵三〇〇余人が討ち取られたものの、何とか持ちこたえました。
やがて、三好方は態勢を立て直し、敗軍の士卒を本陣へ糾合しようとします。
その三好勢は前述したとおり、東大寺の大仏殿に本陣をすえていました。
『足利季世記』にも、三好衆が大仏殿の四方を囲む形で「コモ(菰)」を張り巡らせ、本陣としていたとする記述があります。
そこへ三好方の兵が誤って菰へ火をつけてしまうのです。
「軍ノ最中ナレハ消サントスル隙ナク」(『同』)
炎が大仏殿に飛び火したといいます。
この記述を信じる限り、夜討ちの混乱の中の失火、それも三好方の失火が原因だったことになります。
(つづく)
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