天正五年(1577)九月二十九日の夜、彗星の目撃談が相次ぎました。
たとえば、奈良興福寺の僧・多聞院英俊は、
「彗星、申(西南西)酉(西)ノ間に在之(中略)大凶事」
と日記に書き残し、悪いことが起きる前兆だとしています。
この彗星はのちに、“弾正星”と呼ばれるようになります。
弾正とは信貴山城主にして、織田信長から大和の支配をまかされた松永久秀のこと。
なぜなら、このとき久秀は信長に叛旗を翻し、その居城に籠城していたからです。
“凶星”と結びつけて考えられるあたり、久秀という武将の評価をよく現しているといえます。
悪人中の悪人――それが、この男の評価といえるでしょう。
戦国きってのヒール(悪役)といえる久秀は、織田勢が北陸へ出陣して手薄になった隙に乗じ、信長に造反します。
しかし、この男の悪運もそこまででした。
抵抗虚しく、十月十日に信貴山城は落城します。
そのとき久秀は「腹切自焼」したと、多聞院(前出)が記しています。
切腹のあと、「自焼」すなわち、城に火をかけさせたのです。
爆死したという説もあります。
そして、久秀が死んだ十月十日がまた、彼の悪名をより高めることになりました。
(つづく)
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