戦国の梟雄といわれる松永久秀も、多趣味人でした。
まず、織田信長に負けず劣らず、彼も茶器や名品のコレクターだったといえます。
信長に、名茶器の呼び声高い「九十九髪茄子(つくもなす)」や名刀「不動国行」を献上していることはすでに述べました。
このほか、通説では悪行の限りを尽くした悪党というイメージが定着している久秀ですが、史料からは、一流の文化人としての素顔が浮かび上がってきます。
天文二十三年(1554)、千利休の師匠筋で茶道の祖として知られる武野紹鴎(たけの・じょうおう)の茶席に呼ばれた記録があり、茶道を趣味とする数寄屋者としての経歴は、信長や豊臣秀吉よりずっと古く、大先輩でした。
圧巻だったのは永禄元年(1561)の茶会。
久秀は一千貫の大金をはたいて手に入れた天下の名物・九十九髪茄子(前出)を披露し、山上宗二や今井宗久という当時の一流茶人らのド胆を抜いています。
ほかにも、久秀は戦国随一の名医といわれた曲直瀬道三(まなせ・どうさん)を侍医に迎え、一流文化人であることを印象付けました。
久秀没後二十年ほどたってから、久秀のことをよく知る島左近(石田三成の重臣)は、
「いまどきの武将には明智光秀や松永久秀のような果断さがない……」
といって嘆いています。
光秀・久秀ともに下剋上の代表者ですが、同時代人からからそう評される久秀は、やはり、ただの“悪人”でなかったといえるでしょう。
※次回は、久秀とともに下剋上の時代を切り開いたとされる北条早雲の謎に迫ります。