興福寺の僧・多聞院英俊は、
「先年大佛ヲ十月十日ニ焼、其時刻ニ終了、佛ヲ焼ハタス、我モ焼ハテ也、大佛ノ焼タル翌朝モ村雨降了、今日モ爾也、奇異ノ事也」
つまり、久秀が先年の十月十日に東大寺の大仏殿を焼亡させ、奇しくも同じ十月十日に信貴山城で信長の軍勢に攻められ、「自焼」を遂げたというのです。
大仏を焼いた本人がいわば“焼身自殺”を遂げたわけです。
しかも、大仏殿焼失の翌朝と同じく、久秀が死んだ翌日も村雨が降っていました。英俊はそのことに「不思議なことがあるものだ」と驚いています。
まさに、仏罰があたったといわんばかりの内容です。
さらに吉田兼見という公家は日記に、
「光源院殿(室町幕府の十三代将軍足利義輝)」を弑逆した天罰が下ったと記しています。
“凶星”とみなされ、将軍を殺し、大仏殿を焼いたとされる男――弾正久秀は本当に、それほどまでの“ワル”だったのでしょうか。
その実像に迫ってみたいと思います。
久秀のことが初めて史料に登場するのは、天文二十年(1551)のことでした。
(つづく)
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