幕末動乱の謎[蛤御門の変]編⑤ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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京近郊に長州兵が迫っていることに焦った朝廷は数回にわたり朝議を催し、一時は朝廷内でも長州への同情論が沸騰します。


こうして情勢は長州有利に傾きかけるのです。


しかも、このとき諸藩は、のちの展開が読めず、幕府の出兵要請にも消極的でした。


薩摩でさえ、兵が不足して禁裏守衛以外の出兵要請を断るという状況にあったのです。


まさに久坂の狙いどおりに事は運んでいました。


しかも、このとき鳥取藩と長州の間でクーデターを仕掛ける密約が交わされていた傍証もあります。


長州藩重役間の書状にその具体的な計画が書かれています。



それによりますと、鳥取藩兵で御所の諸門を固め、反長州派の中川宮の参内を差し止めたうえで、その間に攘夷派の有栖(ありす)川宮(がわのみや)を中心に「逐会之勅命相下」、つまり、会(会津)を御所から放逐する勅命をたまわる計画だったというのです。

 

 長州は「八月十八日の政変」で会津にやられたことをやり返そうとしていたことになります。

(つづく)


※二月十七日(日曜日)からサブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説を連載する予定です(毎週日曜日と木曜日の二回)。そちらもぜひご覧ください。

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