幕末動乱の謎[蛤御門の変]編(最終回) | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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鳥取藩と長州藩の間で次のような計画が進められていたといいます。


まず、鳥取藩兵で御所の諸門を固め、攘夷派の有栖(ありす)川宮(がわのみや)を中心に「逐会之勅命相下」、つまり、会(会津)を御所から放逐する勅命をたまわるというのです。


長州は「八月十八日の政変」で会津にやられたことをやり返そうとしていたことになります。


禁門周辺で武力衝突があった前夜、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)が鳥取藩邸に入っていたのは、その密約の存在を裏付ける状況証拠となります。


しかし、その長州が期待したクーデターどころか、京近郊で時間を浪費したことが痛手となりました。


長州藩兵は、その願いが朝廷に聞き届けられるまで京の近郊で虚しく時を過ごし、その間に、西郷吉之助(隆盛)に呼び寄せられた薩摩兵が七月十六日、京に到着しました。


それを待っていたかのように幕府と反長州派の皇族公卿らは勢いを盛り返し、強気の態度に出ます。


こうして久坂の計画は頓挫してしまいます。


翌日の軍議で久坂はふたたび「進発論」を食い止めようとしましたが、来島又兵衛に一蹴されます。


長州の「暴発」は、ここから始まるのです。


久坂は山崎から堺町御門内の元関白・鷹司政通(攘夷派)の邸へ入り、天皇への直訴を願い出るものの、聞き入れられず、自刃して果てました。


そして、久坂の意思は盟友・高杉晋作に受け継がれるのです(次回[功山寺決起]編」へつづく)。


※当時の銃痕が残る蛤御門
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