久坂が藩に対して、
「三奸退去に乗るべきの機、一なり。人心帰向に乗るべきの機、二なり。この二機に御乗じ、これなくては、ついに乗るべく機、これ有るまじく候事」
と意見を述べています。
まず第一に、「三奸(薩摩藩の島津久光・越前藩の松平春嶽・宇和島藩の伊達宗城)」が退去した機(機会)を逃すべきでないと主張しているのです。
とくに大藩・薩摩の帰国は、京に「軍事空白」をもたらしました。
続いて久坂がいう「人心帰向」とは、当時、巷に長州藩への同情論が沸騰し、長州シンパの浪士らが京に潜入していたほか、長州に同情的な藩との「正藩同盟」締結の気運が盛り上がっていたことを指しています。
正藩というのは「正義之藩」の略。会津・薩摩両藩および背後の幕府と一線を画し、長州藩に同調する諸藩のことをいいます。
とくに鳥取藩(藩主・池田慶徳)・岡山藩(藩主・池田茂政)と長州藩の間には、長州が失地回復のために上洛する際、
「因備(鳥取・岡山藩)は、なるたけ迅速に援兵差し出し候都合に相決まり」
というところまで話は進んでいました。
そこで久坂は六月十六日、藩兵をともなって長州を発ち、京近郊の山崎へ進駐したのです。
一方、京近郊に長州兵が迫っていることに焦った朝廷は数回にわたり朝議を催し、一時は朝廷内でも長州への同情論が出て、情勢は長州有利に傾きかかるのでした。
(つづく)
※二月十七日(日曜日)からサブブログで「織田信長の死」の謎をめぐる歴史小説を連載する予定です(毎週日曜日と木曜日の二回)。そちらもぜひご覧ください。
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