決起の日が近づくと門人たちの間に動揺が走り、二月十七日の夜、東町奉行所へ密訴に及ぶ動きが出ます。
十九日の明け方五時ごろ、奉行所与力の門人がその事実を急報すべく、命懸けで天満の私塾へ駈けこんできました。
門人の中には決起中止を求める声もありましたが、平八郎は暴発してしまいます。
その日の午前七時ごろ、私塾・洗心洞につどう門人二〇名と共に、自邸を焼き払い、次いで天満一帯を火の海と化します。
平八郎はかねてより近隣の村々などに檄文を回し、天満の火事を合図に駆けつけるよう指示していたのです。
やがて大塩勢が旧淀川(現・堂島川)を南へ渡り、鴻池善右衛門ら豪商の店を焼き打ちするころには、馳せ参じた農民や町人らをあわせ、数百人の人数にふくれあがっていました。
しかし不思議なことに、それまで幕府側に乱鎮圧の動きはみえません。
大塩勢はなおも南下し、砲撃や放火を繰り返していましたが、正午過ぎになってようやく大坂城代の土井利位(古河藩主)が鎮圧に動きだします。
このとき、余談ながら『塩逆述』という史料に面白いことが書かれていました。
「十九日昼九ツ半時(午後一時)頃(中略)御本丸御貸具足百五領、御鉄砲百挺、ならびに玉薬とも持出し」
大坂城内に「御貸具足」というレンタル具足があり、それを同心らに貸し出した形勢が窺えるのです。
それはともかく、東横堀川の平野橋付近と堺筋淡路町付近で二回、大塩勢と幕府軍は交戦し、とくに淡路町付近では、大坂城代・玉造口定(城)番与力坂本鉉之助らが奮戦し、その日の夕刻ごろ、わずか死者三名を出しただけで大塩勢は四散してしまいます。
いったい、なぜなのでしょうか。
(つづく)
※12月7日(金)~9日(日)まで所用のためブログはお休みし、次回は10日(月)にアップする予定です。