戦国時代の騒乱が、太平の世をへて、幕末にふたたび日本史を大きく揺り動かすことになりますが(近著をご参照ください)、日本が黒船騒動に沸き返る十五年ほど前に、のちの幕末騒乱を予期させる事件が大坂で勃発します。
皆さんよくご存じの「大塩平八郎の乱」です。
しかし、この乱もよくよく詳細をみてみると、謎だらけの事件であることがわかります。
大坂東町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎は、天保八年(1837)二月十九日の朝、「救民」の旗を掲げて挙兵します。
乱のきっかけは前年まで続いた天保の大飢饉にありました。
米価が高騰して民衆が困窮する一方、豪商たちは米の買い占めで暴利を貪っていました。
ところが、町奉行やその役人らは政道の根本を忘れ、ただ保身を図ることにのみ汲々としていました。
東町奉行跡部良弼に至っては、自己の栄達のため、飢餓に苦しむ大坂の民衆を尻目に、江戸へ廻米する始末です。
まさに「奸吏」「奸商」の輩が横行する時代です。
そういう時代に反発した平八郎はついに決断し、私塾・洗心洞の門人らと決起を企てます。
彼らの計画では、まず奉行の跡部を討ち取り、市中に火を放った混乱に乗じて豪商らの蔵を襲い、民衆に富を分け与えようとしたのです。
ちょうど二月十九日は、新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部とともに市中巡回することになっていました。
そして、夕刻、天満の奉行所組屋敷で休息する予定になっていたのです。
しかも、両奉行の休息所は、平八郎の私塾向いにある与力の屋敷。これこそ好機です。
その日のために平八郎は貴重な蔵書を売り払い、大砲・鉄砲、焙烙玉(一種の手榴弾)や火矢などをかき集めていました。
しかし、決起の日が近づくと門人たちの間に動揺が走り、十七日の夜になって、東町奉行所へ密訴に及ぶ動きが出てしますのです。