大坂市街で二回、大塩勢と幕府軍は交戦し、とくに堺筋淡路町付近では、大坂城代・玉造口定(城)番与力坂本鉉之助らが奮戦します。
しかし、その日の夕刻ごろ、死者3名を出しただけで大塩勢は四散してしまいました。
大坂市街を炎に包んだわりには、あっけない幕切れです。
その後、平八郎は混乱にまぎれて行方をくらまし、発生から四〇日ほどして市中の商家で自害(焼死)を遂げます。
ところが、それで「乱」は終わりではありませんでしした。
平八郎が亡くなってからも、
「淀川を平八郎、押しよせたる」
などという偽の情報が流れ、幕府はその平八郎の“亡霊”に悩まされ続けます。
その最たる例が「モリソン号事件」に平八郎が関与しているという噂でした。
モリソン号というのは、日本人の漂流民を乗せて浦賀沖に現れたアメリカ商船のことです。
幕府はこの商船を打ち払ってしまうのですが、このとき、蘭学者の渡辺崋山が、
「例のアメリカ船の内に大塩まかりあり候旨風聞致し候」
と手紙に書き残しています。
何ともスケールの大きな話(国際問題)になったものですが、以上みてくると、この乱には不可解なことが多過ぎます。
①十七日に密訴で決起の事実を知りながら、幕府方は、十九日の朝七時ごろに平八郎が挙兵したのちも、なぜ動かなかったのか。
②大塩勢はわずか三名の犠牲者を出しただけでなぜ四散したのか。
③死後なおも平八郎の“亡霊”が跋扈した理由は何なのか。
次回、その謎について考えたいと思います。
(つづく)