幕末、藤堂藩は藩祖高虎の例にならい、まさに「一の先手」に相応しく、京・大坂間の重要拠点である山崎関門(砲台)の防衛を命じられました。
その後、大政奉還によって成立した新政府(京都)と旧幕府(大坂)の緊張が高まると、旧幕府軍は新政府から薩摩を排除すべきという「討薩」をスローガンに、京へ進軍を開始します。
そして、慶応四年(1868)一月三日、鳥羽街道の下鳥羽付近で新政府軍(中心は薩摩軍)と旧幕府軍が衝突。鳥羽伏見の戦いが始まりました。
戦況は新政府軍優位に展開し、押された旧幕府軍は、さらに南の八幡にあった橋本関門(砲台)で新政府軍の攻勢をしのぐことになります。
その橋本関門は淀川左岸にあり、藤堂藩が守る山崎関門とは淀川を挟んだ対岸に位置しています。
ところが、五日の夜、砲台を預かる藤堂藩重役・藤堂元施は、山崎に勅使の来訪を受け、新政府軍への寝返りを決意。翌六日日の正午ごろ、山崎砲台から一斉に対岸の橋本関門へ“裏切りの砲弾”が降り注ぎます。
薩摩の西郷吉之助(隆盛)は当初、八幡の旧幕府軍を強敵とみなし、「難戦」を覚悟していました。
ところが、西郷の盟友・大久保一蔵(利通)が
「藤堂勢官軍に属し、前面より砲発に及び、ついに散々に討ちなされ敗北す」
と、藩の重役に手紙を送っているとおり、あっさり片がついてしまうのです。
(つづく)
下の写真は山崎付近。淀川の対岸(八幡)へ裏切りの砲弾が降り注いだ…。