戦国と幕末を結ぶ「点と線」⑥ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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秀吉の死後、伏見(家康派)と大坂(前田利家派)の関係が険悪になるや、高虎は、大坂入りした家康の身を案じ、自身の大坂邸に寄宿までさせています。


それだけ高虎が家康の信頼を得ていた証しでもあります。


また、翌年の関ヶ原の合戦で高虎は、松尾山の麓に陣どり、秀吉の小姓だった大谷吉継らと激戦を交わします。


ご承知のとおり、松尾山の小早川秀秋は西軍を裏切り、大谷隊に雪崩れこみますが、このとき吉継は秀秋の裏切りを予期し、一時、小早川隊を押し返しています。


しかし、脇坂安治らが小早川隊に呼応して“裏切りの連鎖”が起きると、持ちこたえきれず、西軍全体の潰走につながりました。


高虎は、この安治らの内応工作に関わっていたのです。


合戦後、高虎はその功により伊予半国をたまわり、今治城主となります。


その後、高虎は加増の上、伊賀と伊勢へ国替えを命じられて津城主となりjますが、これは、大坂ノ役に備えた家康の策略でした。


というのも、伊賀は、木津川を下れば一夜で大坂城に着く重要な土地だったからです。


実際に大坂冬の陣が始まると、


「高虎、御先手(先鋒)をうけたまはり(中略)ただちに木津にいたりて在陣す」(『寛政重修諸家譜』)


とあります。


豊臣家を滅ぼした家康が駿府で病床に伏すと、高虎は幾夜となく家康の枕元に伺候して


「国家の大事あらんには、一の先手は高虎」(『同』)


という遺言をたまわるのです。


やがて時は流れて幕末。藤堂藩は藩祖高虎の例にならい、まさに「一の先手」に相応しく、京・大坂間の重要拠点である山崎関門(砲台)の防衛を命じられました。

(つづく)