一月六日の正午ごろ、山崎砲台から一斉に対岸の橋本関門へ“裏切りの砲弾”が降り注ぎ、「難戦」を覚悟していた新政府軍は、あっさり勝利します。
こうして敗れた旧幕府軍は「賊軍」になってしまいます。
藤堂藩の藩祖高虎が関ヶ原で“裏切りの連鎖”を演出して徳川の天下をもたらしたものの、鳥羽伏見で自らの子孫が裏切って徳川に引導を渡したといえるでしょう。
しかし、この話にはまだ続きがあります。
藤堂藩の裏切りで八幡から旧幕府軍が敗走した直後、総指揮官である徳川慶喜が秘かに船で大坂を出帆したことはご存知のとおりです。
このため、大坂へ逃げ帰った旧幕府軍の将兵らは総指揮官に見捨てられた形となり、彼らは再起を図るべく江戸や会津・桑名を目指しました。
しかし、新政府軍が近江の大津を押さえたため、敗残兵は伊賀路経由で帰国しようとしたものの、藤堂藩にさえぎられてしまいます。
藤堂藩は、
「(伊賀に)軍隊御繰り出し、往返(ここでは街道の意味)はなはだ繁くところどころ見張御出張」(『藤堂藩御触れ控え』)
という挙にでます。
こうして藤堂藩に街道を封鎖された旧幕府軍の敗残兵は、紀州から船で江戸へ向かおうとしますが、藤堂藩はなおも探索の手を緩めず、彼らの脱出を阻止しました。
結果、立ち往生した敗残兵は新政府軍の探索の網に引っかかるしかなく、その後の旧幕府軍の戦術に影響します。
家康が高虎に先鋒の栄誉を与えたことに加えて、豊臣方(大坂方)の押さえとして重要拠点である伊賀と伊勢を与えたことが、ここで大きく影響したのです。
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