慶応四年(一八六八)の一月二日、会津・桑名両藩を中心とする旧幕府軍は、新政府から「奸臣」である薩摩藩主を排除しようと、藩主の身柄引き渡しを求めて大坂城を発ちました。
翌三日、鳥羽街道の小枝橋(京都市)付近に達した旧幕府軍は、そこを守る新政府軍(薩摩軍)と押し問答となります。
旧幕府軍側は、前将軍徳川慶喜が参内するための露払いだと主張し、逆に新政府軍側は、そんな話は聞いていないといって押しとどます。
そして、旧幕府軍側がしびれをきらして強行突入を図ろうとして開戦の火蓋が切られたのです。
こうして戦端が開かれた知らせが宮中に届いたとき、公卿らは激しく動揺しました。
『大久保利通文書』によりますと、
「三々五々各所に集り、(大久保)利通・西郷(隆盛)等に對しては、殆んと言語を交ふる者もなき形勢にして」
「西郷・大久保の宮中にあるや、蛇蠍の如く近くものなかりし」
という状況にあったといいます。
つまり、公卿らは倒幕派の薩摩藩士・西郷や大久保と顔を合わせることを蛇蠍のごとく忌み嫌い、できるだけ両者を避けて公卿どうし集まっては善後策を鳩首していたというのです。
(つづく)