戦国と幕末を結ぶ「点と線」① | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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その日、二〇一三年NHK大河ドラマのヒロイン八重(のちの新島八重)は、母や(あによめ)・姪を引き連れ、鶴ヶ城(会津若松城=福島県)内へ駈け込みました。


慶応四年(1868)、のちに「明治」と改元される年の八月二十三日のことです。


そのときの服装について八重自身、のちにこう回想しています。


「私は着物も袴もすべて男装して、麻の草履を穿()き、両刀を(たばさ)んで、元込七連発銃(最新式のスペンサー銃)を肩に担いでまいりました」


男たちが城下へ通じる街道の守りについて留守にするなか、その間隙をついて新政府軍が城下へ攻め寄せてきたのです。


 新政府軍は城下南東の小田山に陣をすえ、そこから城へ砲弾の雨を降らせました。


 しかし、八重も負けてはいません。


 

 彼女の父は会津藩砲術師範.。したがって、


「(八重は)銃を()って城壁または城楼よりしばしば敵を斃せり(『会津戊辰戦史』)


と記されています。


そのころ城中および城下にいた壮年の男たちは、佐川官兵衛らごくわずか。二十五日以降、会津藩の各部隊が敵陣を突破して城に駈け戻ってくるものの、それまで老人や婦女子・少年兵ばかりだった城はいつ落ちてもおかしくありませんでした。


それだけに八重の奮闘はのちに「会津のジャンヌ・ダルク」と讃えられることになります。


以上、会津戦争のひとこまです。


その会津戦争を含めて「戊辰ノ役」とも呼ばれる戦争は、ご承知のとおり、旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍との間でおこなわれました。


主に東日本の各地を舞台に激戦が繰り広げられ、開戦の火蓋は鳥羽街道の小枝橋付近(京都市)で切って落とされました。

(つづく)