戦国と幕末を結ぶ「点と線」③ | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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鳥羽伏見(京都市)で戦端が開かれたことを知った公卿らは激しく動揺します。


『大久保利通文書』によると、公卿らは倒幕派の薩摩藩士・西郷隆盛や大久保利通と顔を合わせることを蛇蠍のごとく忌み嫌い、できるだけ両者を避けて、公卿どうし集まっては善後策を鳩首していたというのです。


このとき新政府軍の軍勢五千に対して旧幕府軍は三倍の一万五千。


旧幕府軍は数の上で圧倒しており、公卿らが慌てふためくのも頷けます。


しかし、結果は新政府軍の勝利に終わります。そうなると、公卿らはそれまで蛇蠍のごとく嫌っていた西郷や大久保の顔をみかけるたびに、


「陸続来りて面語を請ふもの多く」(『大久保利通文書』)


という態度に出ます。こうして彼ら公卿の態度が一変するのです。


 しかしながら、もしも薩長側が戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いに敗れていたら、どうなっていたでしょう。


 以上の宮中の状況からみて、公卿らは薩長を廃し、徳川家を中心とする旧幕府勢力と手を組み直して、明治新政府を発足させていた可能性は大いにあったと思います。


 実際に鳥羽伏見の戦いの後、正月七日になって新政府は「慶喜追討令」を発します。


 このとき初めて旧幕府軍は「賊軍」となり、形勢を窺っていた諸藩は、新政府支持を打ち出し、大勢は決するのです。

(つづく)