光秀の「11日間」[最終回] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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慣用表現で日和見(ひよりみ)することを「洞ヶ峠を決めこむ」といい、山崎の合戦のおり、順慶がここまで来て、日和見した故事に因むとされています。


 江戸時代の軍記物『大和軍記』には、



「様子御見合有へし定て(中略)八幡山(洞ヶ峠)に在陣の所(中略)山崎合戦の刻、秀吉公の先手高山右近、中川瀬兵衛、明智先手を突崩候節、筒井順慶も八幡山より人数をくり下し淀河の邊にて敗軍の敵を五六百ほど討取られ候」



 と記されています。



 このため、こうした故事が生まれたようですが、まったくの出鱈目です。



実際には、前回みてきたとおり、光秀が洞ヶ峠で順慶を待っていたのです。



信頼していた順慶に裏切られた光秀の失意のほどはいかほどであったでしょう。



そして、何よりも秀吉が猛スピードで進軍するなか、このほぼ一日のロスは光秀の運命に大きく響きます。



光秀の「11日」間のうち、瀬田橋での三日間、そして洞ヶ峠での一日、計四日間の時間的ロスが致命傷になったといっても過言ではないでしょう。



詳細は拙著「信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた」

(双葉新書)をご覧下さい。


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