光秀は、大和の筒井勢(順慶)に対して、隣国の河内へ攻め入り、平定するように協力要請します。
ところが、ここで瀬田橋に続く「第二の誤算」が起こります。
『多聞院日記』の六月九日条に、
「今日河州(河内)へ筒衆(筒井勢)可有打廻由沙汰処、俄ニ延引云々、又郡山城へ塩米俄入云々、いかゝ覚悟相違哉ふしん々々、いかゝ」
と書かれています。
筒井勢は九日に河内へ出兵する予定でしたが、「にわかに延引(延期)」し、居城の郡山に塩や米を運び入れだしたというのです。
多聞院主は「不審々々」と結んでいますが、たしかに不審です。
河内への出兵を延期するどころか、郡山城で籠城の準備を始めたのですから……。
その後、光秀は重臣の藤田伝五を順慶のもとへ遣わしますが、「同心無き」(味方しない)と突っ撥ねられてしまいます。
十一日付の日記によりますと、多聞院主は「藤吉(秀吉)ヘは既に順慶、別儀なしと誓紙を遣わさる」と書き、順慶が光秀を裏切り、秀吉に与したことを明らかにしています。
それでも光秀は順慶を信じたかったのでしょう。
多門院主が「順慶は堅くもって惟任(光秀)の一味」(六月五日付)とみているとおり、光秀もよもや、彼が裏切るとは思ってもみなかったのだと思います。
十日に京を発った光秀は、淀川左岸の洞ヶ峠に陣し、彼の到着を待ちます。
光秀は順慶と合流し、河内・摂津方面へ軍を進める予定だったのです。
しかし、その淡い期待虚しく、順慶はやって来ませんでした……。
(つづく)
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