「光秀ファミリー」その末路①[妻没年の謎] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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明智光秀は、いまから四三三年前の六月十三日(旧暦)に亡くなったとされています。


山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、坂本城へ落ち延びる途次、小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区)で落ち武者狩りの百姓の手にかかって傷を負い、自害して果てたといいます。


それでは、その後、光秀の妻や息子、娘たちはどのような末路を辿ったのでしょう。


まず光秀の妻ですが、一般的に熙子(ひろこ)と呼ばれています。


明智家の家臣・妻木(つまき)氏の出身で、光秀はこの熙子のほか、側室を一人も置かなかったと伝わります。


没年は、墓所である西教寺(さいきょうじ)(滋賀県坂本市)の過去帳によりますと、天正四年(1576)。


つまり、自害する天正十年(1582)まで光秀は、六年以上、“やもめ暮らし”をしてきたことになります。


しかし、『明智軍記』によりますと、光秀の居城坂本城が羽柴勢に囲まれた際、「光秀が妻室」が次女四、五人を召し連れて奥から現われ、「城に火をかけよ」と家臣に命じたというのです。


だとすると熙子は、夫が本能寺で織田信長を討ったあとまで生きていたことになります。


あるいは、熙子は過去帳どおり天正四年に亡くなり、『明智軍記』がいう「光秀が妻室」は側室だったのでしょう。


ならば、光秀が側室を一人も置かなかったという伝承が嘘だという話になってしまいます。


(つづく)


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