昨日も書きましたが、この1月から3月までの創作作戦が自分のなかで決まりました。
もちろん、長編小説を2本、できれば、3本以上、この時期も書くという大それた願い自体は、ずっと前から決まっていたんですが、
この前、書いたように、その3月までに長編を書くという願い自体は、毎年、ここ15年以上、願い続けていても、
実現する時と、しない時とがあったんですね。
それだけ、200-300枚の長編は描くのが、僕には難しいんですね。
(ミッション・インポシブル。笑)
もちろん、それは誰しも、プロ作家でも時間的に長くか掛かるものだとは思いますが、ちゃんとスキルとして確立されてないから、
無駄に悩む時間ばかり過ぎて、締め切りが来ちゃうパターンが何年か繰り返されたりしました。
で、今回、年末から、繰り返し述べている、集英社ノベル大賞400枚を、落選した児童文学作品の改作で完成させたことが、
貴重な実例になりました。
どうやら、最初に新作で長編作品(実際の業界基準は短編なんですが、100枚以上のもの)を描こうとすると、
当然、筋が、ストーリー展開を考える必要があるので、
結局、いつもの【ストーリー展開の呪縛】の陥られずにはいられない図式なんだ、と実感しました。
その児童文学は、今回、たまたま、2系統のラストを用意して、前半も一部ですが、後半120-130枚は別バージョンだったので、
余計に、すでに出来上がっているストーリー展開を、さらに改変して1次稿として、そこへ、その別バージョンをさらに付け加え融合する形で、
2次稿になったんですね。
その作業は大変でしたが、元々、僕の書いたストーリーで、しかも分岐させた理由も自分でわかっていましたから、困難な作業ではなかったです。
つまり、既に仮・確定しているストーリーがあれば、それを叩き台に、改作するのが、自分には合っている書き方なんだと理解できたわけです。
じゃあ、同様に、もう既にストーリーがある既存の落選作や、途中断念の作品を使って、それを改変しよう。
さらに、長編小説を、または、純文学を、
今の僕は必要以上に、「凄い才能」がないと書けないものだ、と神格化して絶対視している節があるので、それを打破しよう。
そのために、この’26年の1-3月は、3月末締め切りの、純文学系の3賞(新潮新人賞、すばる文学賞、文藝賞)を三つとも書き終えて、出そう、
と計画することにしました。
おいおい、1作品ですら完成しない時があるのに、なんでそれを3倍にするんだ、と「常識」では思えるのですが、
そんな「常識」のとらわれている限りは、この神格化を自分の中から消したり、弱めたりすることなどできやしないな、と考えました。
もちろん、その「常識」は間違ってはないです。
自力で書くのなら、また1作を完成させても、どっこいどっこいの結果のレベルしか生まないと思います。
僕は、純文学系を、既存のストーリーを超えた、新しい〈企て〉があるのが必須条件だと思っています。
中には、新規なモチーフでの卓越したストーリー展開の作品もないことはないんですが、
基本は、その〈企み〉の新しさが世界観なり、人物像、表現上のもので表されたものだと思っております。
いつもは、その新しい〈企み〉を考えつつ、同時にストーリー展開も考えたのですが、
もう展開があるのですから、〈企み〉に徹することができるはず、です。
また、自力でなく、多くの評論・研究書・見本とすべき作品の読解・解析をして「他力本願」を旗印とします。
つまり、御仏の叡智を借りる仏教用語そのままに、才能あるプロ作家たちからヒントをもらってやってみようと思います。
昨日、たまたま、直木賞作家の中嶋京子さんの『ワンダーランドに卒業はない』の一説を読んで感動しました。
エンデの『モモ』の面白さを解析した、読書エッセイの一部でした。
すごく見事な文章で、『モモ』の象徴性や、転換ポイントがよくわかりました。
しかも、現代のコロナ禍とも結び合わせたもので、単なる無味乾燥な解説ではありません。
僕は、中島京子さんの作品をちらっとぐらいしか読んだことがなかったので、
この『ワンダーランドに卒業はない』はもちろん、他の小説も買って、そこを、今回のミッション他力本願のスタートにしようと思います。
これ、中島京子さんの文を読む前に決めていたミッションなので、その点からすると、シンクロニシティなのかな、とも感じました。
星占いでは、’26年の牡羊座は自分の星座に、土星も海王星も来て、それぞれの「現実化」と「空想」が合体する、数十年ぶりの当たり年らしいんです。
じゃあ、天命に従いましょう。



