昨日は、午前がgrafの合評会の最終日で、午後が詩のフェスタの講演会と懇親会。
grafでは改めて、ストーリー展開上の齟齬を他の方が指摘するけど、僕はもうあまり、それらが気にならなくなっている。
作者が直せばいいこと。
放っておいても、自然と気づくよ、それ、と思ってしまう。
講演会は内容が抽象的で、難しかったね。
懇親会はふだん話さない人と話ができて。よかった。
さて、フェスタに出かける際に、偶然、手にとった湯本香樹実の小説を久しぶりに読み、解析した。
意外に、出来事の持って行き方が「見えた」。
あと、過去の出来事での具体的エピソードでの換喩的な事象や、繋がりなど、巧みな段落構成と誘導によるものだ、と解析できた。
僕の、直線的かつ直裁な事象並べでは、読み手は退屈する。
意外な展開の「どうなるどうなる」と「へぇーそうなん」の破調的なリズムでの人物情報化の付与(つまり、説明ではないエピソードでの情報)が、この作品はうまい。
1人称「私」の、他の人物との対峙関係の対話による読み手参加と外形描写パートでの述懐セーブと、
それとは違う、きちん「私」が発見した述懐を述べるパートの使い分けがあって、成立しているんだ、とよくわかった。
結果、当たり前の日常パートや、そこからの展開に飽きずについて行けるのだなあ、としみじみ思う。
つまり、湯本さんの、この1人称の語りは、書き手ファーストではなく、心中文を話し言葉にしたり、
他者との対話時は、その心中文をワンクション置いての戯曲的な対峙や突発意見や反射を入れたりしてている、と勝手に感じた。
これが〈非・書き手ファースト〉1人称と呼びたくなるもの。
自己の心情を語りながらも、外形描写が多いので、読み手がイメージしやすい。
こんな文体で描けたら、いいなあ、と心から思う。
(描けないけど。笑)
当たり前の日常性をみずみずしく描く文体で、当たり前でなくすることができる。
(いや、できんけど。笑)
だから、次の群像新人文学賞は、この路線で書くべきだと思う。
昨日、偶然、手にとったんだけど、こう考えると、それもシンクロニシティになってくる(はず)。
そういうこと。
この本、偶然、手にとったんだけど、実はかなり奥に、下側で積読状態だったのに、graf合評会で自作の詩集を、
オンラインで見せようと掘り出し、発掘したもの。
つまりは、本来、「偶然」、手にはできなかったものだったんだよね。草www
意味のある偶然・シンクロ二シティにするかどうかは、僕のこれからの行動次第だ。