今日は、午前がgrafの合評会の最終日、午後が兵庫県の詩のフェスタで、忙しいです。
さて、小説創作に取り組みながら、この10/4時点では、こう考えています。
おそらく、このまま自分の作りやすい小説を書いていても、面白さの点で欠けてエンタメにもならないし、
また、独創性と感性のポンコツな点で純文学にもならないだろう、と。
きっと、完成させるプロセスで、その欠如点から目を背けたまま、どこか無難さや予定調和をメインに、
無意識的に完成させてしまうから。
ちょうど、手元にあって、再解析した山川方夫の「夏の葬列」おける、それらを真逆の凄さに見惚れてしまいます。
その見事なエンタメ的な構成と、語りすぎない確かな文章力を読むと、もちろん、圧倒的な力量の差を痛感します。
けれど、山川のこの作品は、徹頭徹尾、〈読み手ファースト〉視点で組み合わせられている点を無視してはならない、
その出来のあまりの見事さに幻惑されて。
その幻惑こそが、僕のよく言う【ストーリー展開の呪縛】の結果ですからね。
そもそも、書けばなんとかなるんだ、とは僕は信じていませんから。
また、七転八倒、苦吟すれば、自らの才能と天啓で、ある日、ある時、完成するのもありえないでしょう。
grafの合評会でも、他の方がストーリーの破綻を指摘されます。
僕は、失敗ポイントはそこではないと思っています。
そんな重箱の底をつついても、才能・天授説を覆せはしない。
馬鹿げている、と思っています。
これは、その方々を非難しているのではなく、その展開上の破綻そのものは事実でありましょうから、
けれど、そこだけを改善しようとしている限り、正解の一つには辿り着かないと思っています。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」の故・野村監督の箴言通りに、
駄作しか描けないのは、山ほど欠陥・欠点があるからで、それは才能不足以前の問題ですから。
何よりも、純文学とエンタメと目指すゴールも使う道筋も全く違うんですが、
小説という肉体を使う身体性・息遣いは同じなんだ、と
のような、両方に秀でてた作家を読むと思います。
先達に学ぶことでしか、この「小説・鵺という合体妖獣」を捕獲できまない。
そう信じています。
今日はここまで。


