ふと、降りてきた天啓。
戯曲の〈視聴者(=読み手)ファースト感覚〉効果と、落語の噺との関連についても、今日は語ります。
今朝、滝口悠生の芥川受賞作『死んでいない者』と、太宰治『女生徒』を読んで解析していました。
全然、脈絡もない組み合わせで、他にもレイモンド・カーヴァーやら、大江健三郎やらも比較読みしていました。
で、ふと天啓がおりてきたんです。
この八月に、原稿用紙36枚の戯曲を、自分としては初めての長めの戯曲作品として書きました。
それまでの、5枚とかのショート台本とかまるで違う本格的なものを。
その自作の「ズィーボルト百年祭」も、実は今、僕が一番、小説の創作の肝だと思っている「状況下語り」と近似値だったのかもしれない。
それは、ここ数週間、わかってきてたんですが、
考えると、戯曲って、語り手はト書きの極小部分しかスペースを与えられない。
だからこそ〈視聴者・読み手ファースト〉感覚の申し子として、僕を〈書き手ファースト感覚〉から、
いい意味で、強制解除してくれたんだな、と気づきました。
で、今回、今読んでいる、宮信明さんの落語を分析した、著書『対話による創作と継承』を読んでいると、
出会った「落語」は語り手を消す噺方なんだ、の認識と、すっとリンク融合しました。
その、寄席認識と融合してみたら、
小説における、3人称は文字通り「見えない語り手」で、その寄席感覚と機能をやや同一化できる、と発見しました。
(もちろん、下手な3人称語りは、語り手は出しゃばってしまうけど)
従来の僕の小説創作の感覚は、その出しゃばりな〈書き手ファースト〉感覚だったんですね。
また同じく1人称の「わたし語り」は、一見、「語り手=わたし」だから、凡庸に語ると、
完全に〈読み手ファースト感覚〉を忘れて、暴走しがちなんじゃないかな。
つまり、この書き手への配慮をしつつ、〈見えない状況下〉からの多大な因果プロットと影響を意識しつつ語るべきじゃないか。
それが僕に今、一番、欠けている感覚だったんだ、という天啓を、今、得た次第です。
その典型で、冒頭に挙げた、滝口悠生や太宰治らの作品群を読むと、どれも全然違う作品なのに、
その見えない共通感覚が確かにあると感じました。
「見えないはずのもの」が「見え」たんですね。
滝口悠生に太宰治も、久しぶりに読んだので、ストーリー展開よりも、段落構成、文体構成がすごく細かく解析できました。
まるで、レントゲン撮影で、その骨が見えたような感じ、と言えば、伝わるでしょうか。
不思議です。
状況の大切さに気づきながら戯曲を書いた8月には、見えなかったものが、今、この9月の12日には、はっきりと「見え」ます。
落語の噺家感覚(ただし落語家が意識しているわけではないでしょう)の構造が見えるからですね。
(この宮信明さんの本は、10/31から受講する芸術学舎「話芸と文芸」の予習として、読んでいました。
きっと、宮先生ご本人からの話・講義を受けるから、さらにさまざまな発見があるのは確実だろうと思っています)
僕の中の、研究者くんに、今、心から最大の賛辞を送り、感謝したいです。
学ビストであればこそ、ここまで、来れたんですからね。
今日は、午前、お芝居のワークショップ3日目です。
この見えない噺感覚も、活かして取り組みます。笑
