本格的に、仕事が再開。
まだ、感覚が戻らない。
でも、仕事をして、時間の制約があった方が、いい段階だと思う。
(毎日が夏休み状態だと、すぐダメ人間になっちゃうから。笑)
ただ、この7-8月の戯曲との対話・転用は、自由な時間がなければ、あの境地や思考に到達できなかっただろうと思う。
あとは、9/30〆切に向けて、仕事やら、お芝居ワークショップやらをこなしつつ、無駄な時間をなくせるか、集中力を保持できるかが鍵だ。
さて、昨日も帰宅は15時30分すぎで、それから、昼食をとった。
(お弁当を持って行くのを忘れたから)
成果としては、もと文學界新人賞向け原稿(いまだに、この呼称を継続)を1枚書いて7枚目に入る。
一応、人物間対峙になっている感覚があり、立ち位置・視点が定まり(=統一感があり)すごく描きやすい、と感じた。
で、いろいろと作品そのものよりも、もっと構成・構造的なことを深く考える。
〈企み〉に凝るか、人物たちの履歴や背景を掘り下げるか、両者をどう繋げ、どう広げるか。
拡散して曖昧化する可能性もあるし、また、そうなると題も変わりそうだ。
偶然、木内昇の短編「茗荷谷の猫」を手に取った。
本作は木内さんが直木賞を受賞する2年前の、30枚の小品。
すごく文章が上手いと感じていた作品。
今までも、何年も前から繰り返し読んでいる。
で、1年ぶりくらいかな、あらためて読むと、やはり文章に隙がない。
でも、それが印象でなく、観察と生活の結びつきが今の戯曲感覚・読み手ファースト感覚で、心地よいと感じる。
これは、エキセントリックを目指す、もと群像文学新人賞むけ原稿の方にも反映すべきだ、と、なぜか強く感じる。
もちろん、家族の歴史を書く、もと文學界の方にもだ。
この「茗荷谷の猫」っぽい書き方こそが、芥川賞の選評でプロ作家たちが求めていた、
〈企み〉の影で、それを支える、きっと地道な書き振りだと思う。
要は、単なる修辞技法はうざく感じるようで、そこに意味や〈企み〉を付与するべきだと求めているようだったから。
表層的な新奇さに走ると上滑りしそうだ。
その意味では、枚数が増えるのと締め切りが伸びる群像へ応募の方が、
もと文學界新人賞むけ原稿には、人物の背景がじっくりと描けて、適切か。
やはり、猫も作品に登場させたいな。
ああ、7時前には家を出ないと。
