本格的に、仕事が再開。でも、9/30〆切に向けて、無駄な時間をなくせるか | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

本格的に、仕事が再開。

まだ、感覚が戻らない。

でも、仕事をして、時間の制約があった方が、いい段階だと思う。

(毎日が夏休み状態だと、すぐダメ人間になっちゃうから。笑)

 

ただ、この7-8月の戯曲との対話・転用は、自由な時間がなければ、あの境地や思考に到達できなかっただろうと思う。

あとは、9/30〆切に向けて、仕事やら、お芝居ワークショップやらをこなしつつ、無駄な時間をなくせるか、集中力を保持できるかが鍵だ。

 

さて、昨日も帰宅は15時30分すぎで、それから、昼食をとった。

(お弁当を持って行くのを忘れたから)

成果としては、もと文學界新人賞向け原稿(いまだに、この呼称を継続)を1枚書いて7枚目に入る。

一応、人物間対峙になっている感覚があり、立ち位置・視点が定まり(=統一感があり)すごく描きやすい、と感じた。

で、いろいろと作品そのものよりも、もっと構成・構造的なことを深く考える。

〈企み〉に凝るか、人物たちの履歴や背景を掘り下げるか、両者をどう繋げ、どう広げるか。

拡散して曖昧化する可能性もあるし、また、そうなると題も変わりそうだ。

 

 

 

 

偶然、木内昇の短編「茗荷谷の猫」を手に取った。

本作は木内さんが直木賞を受賞する2年前の、30枚の小品。

すごく文章が上手いと感じていた作品。

今までも、何年も前から繰り返し読んでいる。

で、1年ぶりくらいかな、あらためて読むと、やはり文章に隙がない。

でも、それが印象でなく、観察と生活の結びつきが今の戯曲感覚・読み手ファースト感覚で、心地よいと感じる。

これは、エキセントリックを目指す、もと群像文学新人賞むけ原稿の方にも反映すべきだ、と、なぜか強く感じる。

もちろん、家族の歴史を書く、もと文學界の方にもだ。

 

この「茗荷谷の猫」っぽい書き方こそが、芥川賞の選評でプロ作家たちが求めていた、

〈企み〉の影で、それを支える、きっと地道な書き振りだと思う。

要は、単なる修辞技法はうざく感じるようで、そこに意味や〈企み〉を付与するべきだと求めているようだったから。

 

表層的な新奇さに走ると上滑りしそうだ。

その意味では、枚数が増えるのと締め切りが伸びる群像へ応募の方が、

もと文學界新人賞むけ原稿には、人物の背景がじっくりと描けて、適切か。

寝そべる猫「茗荷谷の猫」風

やはり、猫も作品に登場させたいな。

 

ああ、7時前には家を出ないと。