昨日の、坂崎かおるさんの小説分析の続きです。
まずiPhoneのメモ日記に描いた、気づきから引用します。
やはり今、転機が来ている気がする。
この戯曲感覚の小説創作は、自分の文章感覚を根本的に変えつつある自覚があるから。
あの詩が書けるときのような、ずれ・発見を見つけたときのような変容が訪れているのじゃないか。
しかも、この〈会話とト書き関係〉は、マンガのネームの時の〈地と図〉の関係にも似て、
僕の中のビジュアル感覚(美術感覚)と呼応している。
類似感覚だからわかる。
静物デッサンをする際にモチーフを配置を考え、置く感覚とも類似している。
そこには、ハーモニーがあるし、それと矛盾する対立もある。
色彩と形やさまざまな様相が絡むから。
さらに、全体を離れて観る俯瞰する〈鳥の眼抽象化感覚〉とも関係している気がする。
結局は、自分の中のアーティステックな感覚に包括されてゆきそうだ。
僕は、過去、旧:京都造形大学(現:京都芸術大学)の通信洋画コースを’03年に卒業していて、
かつ、その前からの長く何十年も絵を描いてきた体験と、卒業後にも彫塑で石膏像を作っていたり、
アートアニメーションや映像作品を制作したり、の経験があります。
あと、ストーリーマンガの研究をしていて、マンガ学会での発表経験もあります。
だから、事実として、素人でも、アーティスト感覚を、それなり持っていたんですね。(お恥ずかしいですが)
ほんと、坂崎かおるさんの小説を分析読みしていたら、その小説作品が戯曲風に分解され変容されたように感じました。
これって、デッサンしている時に、絵画モードの視覚だけでなく、ちょっと自分の中のスイッチを弄ると、
彫塑の立体モードになって、視覚に触覚を混ぜることができるし、(つまり、ザラザラ、ツルツル、凸凹を感じれる)
その観察対象の見えない頭上や側面、背面、下からの構図が、なんとなく浮かぶんですよ。
場合によると、マンガや絵本、アニメーション感覚から、その対象物が数秒前、数秒後の動く動きが、
時間的な前と後ろのポーズもなんとなく「見え」ます。
今でも、たまに、能楽をクロッキーする時には、その感覚を呼び覚まして、手を動かし、描けますから。笑
事物を、それらのさまざまなアーティスティックな感覚で、紙面に変容させ、定着できるんです。
プロの美術家と同じように、とは申しません。
あくまでも素人感覚のレベルなんですが。
で、坂崎かおるさんの小説の文章で、省略される時間と事物、圧縮される時間と事物、それらがト書き的な地の文へ。
また、会話と地の文の呼応が、戯曲の時の、会話とト書きの呼応へと、二重写しに重なり、対応していると感じることができました。
何ヶ月も乗っていなくても自転車に乗れるように、絵は毎日書いていた時と同じようには無理でも、
いつでも、その感覚を(実際には、錆び付いていて同じではないにしても)発動させて描けます。
同じように、もう小説の文章を見ても、この戯曲的な変容感覚で「観れる」と思います。
何より、この感覚の根本的に従来の僕の小説感覚と違ってる点は、常に「観客(読者)にどう見えるか」の感覚に裏打ちされていること。
もちろん、これは、あのここ数年、求めてやまなかった〈読み手ファースト感覚〉なんですよね。
恐ろしいことは、この「観客(読者)にどう見えるか」の感覚って、今度は逆に、絵を描く際にも働いてしまいそうに思います。
だった、その感覚主体は、同じ僕自身の身体性ですからね。
詩のモードもね、いつだって、発動して、その種は溜まってますから。


