不思議感覚は、急に訪れるから | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

昨日の、坂崎かおるさんの小説分析の続きです。

 

まずiPhoneのメモ日記に描いた、気づきから引用します。

 

 やはり今、転機が来ている気がする。

 この戯曲感覚の小説創作は、自分の文章感覚を根本的に変えつつある自覚があるから。

 あの詩が書けるときのような、ずれ・発見を見つけたときのような変容が訪れているのじゃないか。

 しかも、この〈会話とト書き関係〉は、マンガのネームの時の〈地と図〉の関係にも似て、

 僕の中のビジュアル感覚(美術感覚)と呼応している。

 類似感覚だからわかる。

 静物デッサンをする際にモチーフを配置を考え、置く感覚とも類似している。

 そこには、ハーモニーがあるし、それと矛盾する対立もある。

 色彩と形やさまざまな様相が絡むから。

 

 さらに、全体を離れて観る俯瞰する〈鳥の眼抽象化感覚〉とも関係している気がする。

 結局は、自分の中のアーティステックな感覚に包括されてゆきそうだ。

 

僕は、過去、旧:京都造形大学(現:京都芸術大学)の通信洋画コースを’03年に卒業していて、

かつ、その前からの長く何十年も絵を描いてきた体験と、卒業後にも彫塑で石膏像を作っていたり、

アートアニメーションや映像作品を制作したり、の経験があります。

あと、ストーリーマンガの研究をしていて、マンガ学会での発表経験もあります。

だから、事実として、素人でも、アーティスト感覚を、それなり持っていたんですね。(お恥ずかしいですが)

 

 

 

 

 

ほんと、坂崎かおるさんの小説を分析読みしていたら、その小説作品が戯曲風に分解され変容されたように感じました。

これって、デッサンしている時に、絵画モードの視覚だけでなく、ちょっと自分の中のスイッチを弄ると、

彫塑の立体モードになって、視覚に触覚を混ぜることができるし、(つまり、ザラザラ、ツルツル、凸凹を感じれる)

その観察対象の見えない頭上や側面、背面、下からの構図が、なんとなく浮かぶんですよ。

 

場合によると、マンガや絵本、アニメーション感覚から、その対象物が数秒前、数秒後の動く動きが、

時間的な前と後ろのポーズもなんとなく「見え」ます。

能楽師のクロッキー風スケッチ

今でも、たまに、能楽をクロッキーする時には、その感覚を呼び覚まして、手を動かし、描けますから。笑

事物を、それらのさまざまなアーティスティックな感覚で、紙面に変容させ、定着できるんです。

プロの美術家と同じように、とは申しません。

あくまでも素人感覚のレベルなんですが。

 

で、坂崎かおるさんの小説の文章で、省略される時間と事物、圧縮される時間と事物、それらがト書き的な地の文へ。

また、会話と地の文の呼応が、戯曲の時の、会話とト書きの呼応へと、二重写しに重なり、対応していると感じることができました。

 

何ヶ月も乗っていなくても自転車に乗れるように、絵は毎日書いていた時と同じようには無理でも、

いつでも、その感覚を(実際には、錆び付いていて同じではないにしても)発動させて描けます。

 

同じように、もう小説の文章を見ても、この戯曲的な変容感覚で「観れる」と思います。

何より、この感覚の根本的に従来の僕の小説感覚と違ってる点は、常に「観客(読者)にどう見えるか」の感覚に裏打ちされていること。

もちろん、これは、あのここ数年、求めてやまなかった〈読み手ファースト感覚〉なんですよね。

 

恐ろしいことは、この「観客(読者)にどう見えるか」の感覚って、今度は逆に、絵を描く際にも働いてしまいそうに思います。

だった、その感覚主体は、同じ僕自身の身体性ですからね。

 

詩のモードもね、いつだって、発動して、その種は溜まってますから。