とうとう8月だ。中原中也・佛教大学OLC・アニメ『これ描いて死ね』の素晴らしさ | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

とうとう8月だ。

この間まで、7月だったのに。

(当たり前。www)

だらりと過ごして何もしないでいると、1日が早い。

一応、何かはしているんだけどね。

 

*中原中也の詩作品と《人間の顔》のリンクの完成

 

その、数少ない何かとして、昨日の最大の成果は、佛教大学OLCで、知り合いの大学の権田先生の授業を観たこと。

これ、他の時間はダラダラだったけど、今、思い起こして考えると、すごく創作のヒントになった気がする。

(権田先生とは、詩の研究会でご一緒して、お知り合いになれました。

 すごく立派な研究書もご献本いただきました)

 

 

 

 

 

僕が観たのは、いつもの日高佳紀教授のものじゃなくて、

「文学でめぐる京都」という共同講座のひとつで、第5回「ゆきてかへらぬ 京都(中原中也の恋愛詩の世界)」です。

(まだ、見逃し配信は購入できます。ぜひ、どうぞ。お薦めしますよ)

 

もちろん、僕は中也については、一通り知っていました。

(’23年に放送大学の山口学習センターの面接授業「村上春樹の世界」の受講のついでに、

 山口市の湯田温泉の「中原中也記念館」にも行ってきましたしね。笑)

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長谷川泰子という女性をめぐり、あの評論家の小林秀雄と中也との複雑な三角関係とかもね。

 

でも、それが15-17歳で、しかも京都で繰り広げられていた認識があまりなかった。

年譜を見ていても、しっかりと認知してなかったんですね。

 

今回、その山口県での神童と言われた14歳までと、そこでの落第から逃げるように京都・立命館(旧制)中学校に来たこと。

その山口での短歌の系譜と五七調感覚の意義。

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天才・中也でなく、人間・中也を、自分の中ではっきりと体感できました。

その後の、京都での生み出された一連の恋愛詩と、その背景のダダイズムの関係も、知識としてでなく、実感として認知できました。

中也の《人間の顔》が、自分の中に、初めてしっかりと根づき、定着できたんですね。

 

*《人間の顔》と、因果プロット的な背景感覚。さらにアニメ『これ描いて死ね』第5話のこと

 

何だろう。

今、思うと、一度にいろいろなことがリンクしてくる気がする。

以下、いろいろと取り留めもないことを書いてみる。

 

昨日の権田先生の中也の講座で、詩を書きたくなると同時に、事実(生活履歴)が因果プロット的に、

中也の文学へ直截に関わっていることを感じた。

(そのメソッドというか、ルートが見えた、と感じる)

 

それが、なぜか、さっき観たアニメ『これ描いて死ね』第5話とリンクする。

その作品中で、登場人物の一人、マンガ家志望の天才少女・光のいう言葉。

 

「自分は人間よりも、マンガと、友達になれる。しかも、テクニックじゃなくて、〈顔の見えるマンガ〉としか友達になれないの」

 

この趣旨のセリフとも通じると思った。

(アニメ『これ描いて死ね』については以下のリンクが説明としてわかりやすいです。

 

 

 

対して、手元にあって、読み繋いでいるいくつかの児童文学作品たち、

例えば、ちゅうでん児童文学第26回大賞の『ぶたのしっぽ』を読むと、

いつもの児童文学的な配慮、主人公の年齢や学年ごとの、こだわりが、僕にはどうしても、(マイナスな)縛りや媚びに見えること。

はっきり言って、嫌悪感を持ってしまう。

 

それは、今、描いている戯曲も、ともすると、ついうっかりと表層的なストーリー展開に流れてしまい、

「本物の描き方じゃなくなる」きらいがあることとも繋がっている。

 

だから、戒めとして、絶えず、常に強く意識しないといけない。

 

恐ろしいのは、「事実を調べて書くこと」が、「人間の顔をしっかりと捉えること」と〈=〉じゃなくて、

油断すると、すぐ〈≠〉になってしまう自分がいること。

 

これはすごく怖い。

 

結果しか見えないから駄作と感じて、かつ「才能がない」と断じて、書くのが嫌になるから。

原因は自分の書き方や、書くルートやアプローチ方法にあるのであって、自分の才能とは無関係なのに。

 

そして、思った。

 

これらが、こうしてアニメも詩も児童文学も何を見ても、リンクしてしまう現状は、

実は自分の中に〈鳥の眼・抽象化かつ生活因果背景感覚〉が確固としてあって、前までと違い、それがもう前面にいること。

感覚として目の前に出てきて、ずっと上から見晴らしている気もする。

 

これは良いことだ。

例の宿敵【ストーリー展開の呪縛】と対峙・対決する武器になるから。

(でも、この〈鳥の眼・抽象化かつ生活因果背景感覚〉くん、まだまだ、弱くて、活動できていないんだよね)