とうとう8月だ。
この間まで、7月だったのに。
(当たり前。www)
だらりと過ごして何もしないでいると、1日が早い。
一応、何かはしているんだけどね。
*中原中也の詩作品と《人間の顔》のリンクの完成
その、数少ない何かとして、昨日の最大の成果は、佛教大学OLCで、知り合いの大学の権田先生の授業を観たこと。
これ、他の時間はダラダラだったけど、今、思い起こして考えると、すごく創作のヒントになった気がする。
(権田先生とは、詩の研究会でご一緒して、お知り合いになれました。
すごく立派な研究書もご献本いただきました)
僕が観たのは、いつもの日高佳紀教授のものじゃなくて、
「文学でめぐる京都」という共同講座のひとつで、第5回「ゆきてかへらぬ 京都(中原中也の恋愛詩の世界)」です。
(まだ、見逃し配信は購入できます。ぜひ、どうぞ。お薦めしますよ)
もちろん、僕は中也については、一通り知っていました。
(’23年に放送大学の山口学習センターの面接授業「村上春樹の世界」の受講のついでに、
山口市の湯田温泉の「中原中也記念館」にも行ってきましたしね。笑)
長谷川泰子という女性をめぐり、あの評論家の小林秀雄と中也との複雑な三角関係とかもね。
でも、それが15-17歳で、しかも京都で繰り広げられていた認識があまりなかった。
年譜を見ていても、しっかりと認知してなかったんですね。
今回、その山口県での神童と言われた14歳までと、そこでの落第から逃げるように京都・立命館(旧制)中学校に来たこと。
その山口での短歌の系譜と五七調感覚の意義。
天才・中也でなく、人間・中也を、自分の中ではっきりと体感できました。
その後の、京都での生み出された一連の恋愛詩と、その背景のダダイズムの関係も、知識としてでなく、実感として認知できました。
中也の《人間の顔》が、自分の中に、初めてしっかりと根づき、定着できたんですね。
*《人間の顔》と、因果プロット的な背景感覚。さらにアニメ『これ描いて死ね』第5話のこと
何だろう。
今、思うと、一度にいろいろなことがリンクしてくる気がする。
以下、いろいろと取り留めもないことを書いてみる。
昨日の権田先生の中也の講座で、詩を書きたくなると同時に、事実(生活履歴)が因果プロット的に、
中也の文学へ直截に関わっていることを感じた。
(そのメソッドというか、ルートが見えた、と感じる)
それが、なぜか、さっき観たアニメ『これ描いて死ね』第5話とリンクする。
その作品中で、登場人物の一人、マンガ家志望の天才少女・光のいう言葉。
「自分は人間よりも、マンガと、友達になれる。しかも、テクニックじゃなくて、〈顔の見えるマンガ〉としか友達になれないの」
この趣旨のセリフとも通じると思った。
(アニメ『これ描いて死ね』については以下のリンクが説明としてわかりやすいです。
対して、手元にあって、読み繋いでいるいくつかの児童文学作品たち、
例えば、ちゅうでん児童文学第26回大賞の『ぶたのしっぽ』を読むと、
いつもの児童文学的な配慮、主人公の年齢や学年ごとの、こだわりが、僕にはどうしても、(マイナスな)縛りや媚びに見えること。
はっきり言って、嫌悪感を持ってしまう。
それは、今、描いている戯曲も、ともすると、ついうっかりと表層的なストーリー展開に流れてしまい、
「本物の描き方じゃなくなる」きらいがあることとも繋がっている。
だから、戒めとして、絶えず、常に強く意識しないといけない。
恐ろしいのは、「事実を調べて書くこと」が、「人間の顔をしっかりと捉えること」と〈=〉じゃなくて、
油断すると、すぐ〈≠〉になってしまう自分がいること。
これはすごく怖い。
結果しか見えないから駄作と感じて、かつ「才能がない」と断じて、書くのが嫌になるから。
原因は自分の書き方や、書くルートやアプローチ方法にあるのであって、自分の才能とは無関係なのに。
そして、思った。
これらが、こうしてアニメも詩も児童文学も何を見ても、リンクしてしまう現状は、
実は自分の中に〈鳥の眼・抽象化かつ生活因果背景感覚〉が確固としてあって、前までと違い、それがもう前面にいること。
感覚として目の前に出てきて、ずっと上から見晴らしている気もする。
これは良いことだ。
例の宿敵【ストーリー展開の呪縛】と対峙・対決する武器になるから。
(でも、この〈鳥の眼・抽象化かつ生活因果背景感覚〉くん、まだまだ、弱くて、活動できていないんだよね)






