さて、今日は午前、バドミントンのコーチで、午後、ジムへ筋トレだ。
それらは、作業だから、行けば解決するから、楽なものだ。
問題は、やはり長編小説を書くこと。
*故•野村監督の言うところの「不思議の負け」を回避して、二度負けしないこと
はじめに、野球の故•野村監督の『勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし』の言説の正しさを叫びたい。
しみじみと、今、そう思うから。
長編小説を書き上げること。
これがたとえ駄作であっても、今の僕には大変な集中力やエネルギー、時間が要る。
ビギナーズ・ラックで書き上げることができない。
何よりも、描き始めることすら、すごく大変だ。
それは、無意識的に、つい絶対的な完成形を求めて、そのイメージが出来なければ書けないと思い込んでいるのが原因だ。
それが無意識な気分レベルだからこそ制御できない。
いや、書こうと思い始めると、意識からけてしまうので、認識すらできていないのが現状か。
だから、「負け」てしまう。
いつも、この気分に負けてしまっているから。
まさに、それは『不思議の負け』そのものだ。
ノムさんの指摘する、心の声に、まず負けてしまう、まさに『原因のある負け』になっている。
それは「どうせ「上手く描けない」「(正しい)書き方がわかってないんだから描けない」という、もう一人の僕そのもの。
「才能がないから諦めろ」と常に囁く才能天授説そのものでもある。
しかし、対抗策はある。
自分の中にある、ゼロから描く【美術創作】的な作業感覚。
これは、前に、放送大学のドローイング授業で描いたものだけど、描き始め。
こんなふうにデタラメに描いていると、次のようになっちゃう。
この感覚も自分の中にあるのだから、その作業感から始める【書き始め癖】で描けばいい。
現に、詩は、たぶん、ほぼその手の体得した感覚で描き始め、言葉を拾ってくる。
それで、いつでも詩の種や卵レベルのものなら書ける。
完成形など、最初、全くないのだから。
僕の中にある、美術的なアーティスト魂。
その存在を否定することは、いつも厳しく口うるさい、僕自身の左脳・審査官にもさすがにできない。
たぶん、左脳くんは、詩人であることを否定することも諦めている。
多少の実績は、詩集やら受賞歴で証明されているからね。
でも、小説家はまだ完全否定できるんですよね。
*僕の中にある、ABCさまざまな〈視点〉と〈感覚〉六つのこと
きっと、奥先生の講義や放送大学の面接授業を受けると目覚める学ビスト意識は、
おそらく、自分の中の〈鳥の眼感覚〉の物語学ナラトロジー的な研究者意識でもある〈A:読み手視点〉の融合体に直結している。
それら二つに対して、詩の微細さに入り込む〈虫の眼感覚〉の〈C:書き手視点〉の融合体もある。
これは、きっと前述したアーティスト感覚とも関連していると思う直感系でもあるはず。
さらに、生活者の物語を純粋に楽しめる〈人の眼〉の〈B:生活読者視点〉の融合体もある。
長編小説は、それら六つの様相の複合技なんだと思うよ。
が、しかし、普段の生活ではそれらは消えている。
最近は、ある意味、ふつうに本が読めなくなっているから。
一番使いこなせたはずの、〈人の眼・読者〉も起動に時間やエネルギーが要る最悪の状態だからね。www笑
でも、一番難しいのは、これらA,B,Cを同時に強弱を与えつつ制御することなんだよな。
どれかに偏るとダメ。
長編小説は書けないんだ。
冷静に、〈鳥の眼視点〉で分析しつつ、〈虫の眼視点〉でオリジナルな感性のまま自由に描き、
人として〈客観的な読み手意識〉へ対峙して魅せる演出も保持し続ける。
いや、それ、かなりの難易度の高いウルトラCですからね。
そして、その描き初めは、「初心者のための戯曲講座」での角先生が言うところの、
「自分との接点」をどう結びつけるかのルートを作る、見つけることから始めなければいけないんだろう、な。
今、描いているのは、朝7時です。
バドミントン教室へ出発するまでの、2時間と少しある。
足掻いてみます。

