昨日、待ちに待った、この夏、最大のイベント、姫路市アクリエでの「初心者のための戯曲講座」第1日目へ行ってきました!
すごく、すごく面白かった。
*「初心者のための戯曲講座」受講しての、衝撃とあらまし
冒頭、総勢11名の自己紹介などがあり、前回の講座参加者は、僕以外は予想外に1名さんだけだった。
で、その肝心の内容はというと、戯曲の書き方としてはある意味、僕には既知のことばかりだった。
けど、意識や感覚の重点の置き方が、僕の小説的な物語感覚とは、微妙にずれていること、齟齬があることが新たに発見できた。
いや、正確には、その違いは意識していたが、僕の中に束縛条件として固定・固着してしまっている、
例の【ストーリー展開の呪縛】によるものと、戯曲創作との感覚的違いが、知識を超えて、明確化できた。
これは大収穫だった。
もちろん、そうなるだろうことを予想して、アンテナを張っていた僕だから、勝手にそう思っただけのことなんだろう。
例えば、岡ひろみ先生はこうおっしゃる。
「戯曲(の基本)は、誰かが(舞台へ)《出て》来て、逆に、誰かが(舞台から)出て行き《吐ける》こと。デハケ、です」
この《登場・退場=出て・吐ける》は意外に盲点でした。
もちろん、これは役者という人物中心の劇では、観劇した自分の過去の経験上に照らしても、当然のこと。
既知の常識中の常識だ。
それを、僕も当たり前のように、今まで楽しんできた。
けれど、小説創作上はどうだろう。
全く意識できていなかった。
これも、主人公はこう動く、対して、他の人物はこう動く、は小説創作場で考えてますよ。
でも、それって、将棋やチェスの駒としてだけなんです。
いくら、僕の表面意識がそうじゃないつもりでも、無意識には単なる駒だった。
ストーリー上、のセリフと役割を演じさせただけ。
それは、舞台から《ハケタ=退場》した主人公以外の人物って、上手く想像できていないかったですから。
いや、全然、想像できていなかったんですが、それでも平然とストーリー展開させてきました、から。
それって、意識が〈人物と、人物がいる舞台〉を中心に巡っているんじゃなくて、ストーリー展開中心に囚われている。
間違って固着しているんですよね。
(また、これは、感覚的には、物語が紙面上の文字としてしか存在してなくて、
そこの書かれていない、生きた生身の人物が立っている〈舞台・場〉が創生されていないことを明確に指し示している、
と感じられています。
この決定的な欠陥で、盲点も、もちろん、予想の範囲内だったが、どうやれば改善できるか、ずっとわからなかった。)
*7/17(土)の京都芸術大学の特別講座と、今回の戯曲講座の合わせ技で、「見えた」こと
今、なんとなく「見えた」気がする。
人物を、この僕の中の【展開の奴隷】感覚から解放する方法が。
それには、このブログで7/17に書いた土曜日の京都芸術大学の。「2が1になる」か、「2が2のまま」かの構造感覚。
これを利用すれば(正解で)いい、という気がしている。
実際、岡ひろみ先生も「人物間に「対立」が感じられると、話が展開しやすくなる」とおっしゃっておられたからね。
僕の中の、この束縛は、自分の、職業柄仕方がない部分ではあり、
さらに、短歌・俳句・近代詩・現代詩という様々な創作講座にも複数、通ってきた経験とも相まって、
その背景にある鑑賞者にとどまる過去の毎日で、何十年も上書きされ続けてきましたからね。
筋金入りです。
で、この、ジャンル規範分け意識による、根強く澱んだ、ある種の予断・偏見が、今も創作思考する際に縛りとしてずっと居残り、
僕を無意識的に強く支配してきた。
深く澱んだ残滓として足を引っ張り続けてきた難敵です。
あくまでも、そんな規範は鑑賞者としてのくだらない一つのスキルであって、絶対存在じゃないはずなのに。
果たして、この戯曲講座の、あと3回で、この間違った齟齬感覚を是正できるか、わからないですが、頑張りたいです。
今日はジムへ行って筋トレとランニング、そして、明日の毎日文化センターでの講座向けの課題図書、山本周五郎「柳橋物語」の読了と、
最大の困難ごと、部屋の掃除・片付けです。

