無事、兵庫学習センターでの、放送大学・面接授業「映画学入門」第2日目が終了しました。
僕は雨の中、cubで行ったので、レインコートの着脱やら、水滴の拭き取りやら時間がかかりますが、すごく楽でした。
兵庫学習センターは、他の学習センターと同じく国立大学である神戸大学の一角に間借りしています。
(月末に行く滋賀学習センターは、珍しく私学の龍谷大学の中みたいですが)
神戸大学は、阪急六甲駅からは急な坂を延々と登り、大変ですから、電車では行きたく無いです。
校舎の1階で室内に広く大きなバイク・自転車の駐車スペースがあるので、こういう雨の日は大助かりですね。
安い合羽なら、他の神大生はバイクに引っ掛けて乾かしています。
僕は、今回、比較的高価なセパレート型のレインスーツなので、よく拭き取って、コンビニ袋に入れ、教室へ持って上がります。
これが駐輪場から、外が見える写真。
さて、肝心の放送大学・面接授業「映画学入門」ですが、昨日に引き続き、面白かったです。
1日目にセンターの人から言われた、「抽選で選ばれた方々です」のニュアンスは多数の希望者がいたであろうと類推できます。
講師の板倉先生曰く、次が去年と同じ「発展編」なのか、全く別もののかわかりませんが、
映画学でまだあるそうです。
去年と同じなら、受講した我々は受講不可ですが、まだ内容は決められてないそうでした。
この授業で、印象的だったのは、実は授業内容そのものよりも、僕自身の「変容度」でした。
「えっ?」
ですよね。
繰り返し言いますが、去年、この講座の発展編で「ホラー映画」中心のものを受講しているんですよ。
だから、例として視聴する映画の抜粋シーンは、時々、同じものがあります。
また、映画そのものは違っても、先生の語る技法は、微かに去年の記憶がある同じものなんですね。
「観客は、動きに惹きつけられる」
「俳優の〈アクション繋ぎ〉や〈視線ショット〉による誘導で、人物へ観客は自己同一化するように映像は組み立てられている。(=古典的ハリウッド映画)」
「物語の展開は、A安定→B不安定→C再安定で終わる〈古典的ハリウッド映画〉に対して、現代の映画は色リオな解釈ができる曖昧さで終わる」
「現代の映画は、無駄な動きで無意識の動作を入れる無意識さのリアリティを認めるが、〈古典的ハリウッド映画〉の手法には、無駄がない」
「監督は、全てを総括しているので、エキストラの配置や衣装の色、画角、小道具の配置には注意する」
どれも何かしら聞いた覚えがあります。
でも、その’25年6月の時点は、繰り返しますが、僕は「演出」意識こそが、僕自身がずっと探し求めてきた〈読み手ファースト感覚〉の、
実は弩(ど)正解だった、とは全く気づいていなかったので、スルーしてました。
昨日と同じことを繰り返しますが、
実は、この映画学の授業を受ける前から、小説においても、細かく〈演出〉する作家の文章に気づいていました。
それは、今、映画『国宝』の原作者として再注目されている、芥川賞作家の、この吉田修一です。
僕は、現代の世相や社会のモチーフに、「面白く」エンタメ系はもちろん、純文学系も描ける稀有な作家だと、吉田修一を思っていて、
かつ、特にその短編が好きな作家です。
上記の2冊がそうで、特に『うりずん』中の、たかだか5.3枚の「解雇」は名作中の名作だと、十何年も前から好きな作品です。
理由は、人物に細かく〈演出〉が入っているからです。
それが、今、今回の映画学を受講して、
「ああ、吉田修一の小説は、文章としての展開じゃなく、人物への演技指導が、いや、人物たちがそれぞれちゃんと演技を【見せて】くれているんだ」
と、しみじみと、より深く感じることができました。
その前の、’26年2月の「初心者のための演劇講座」の受講からの、今回の「映画学」、そして7・8月に受ける「初心者のための戯曲講座」と、
一連の流れが、まるで誰かの計画のように、プログラムが配置されています。
まさに、学びによって、僕のような学ビストは変容するものですから。
もう元へは戻れそうにないです。
前へ、前へ、進みます。





