さて、今日は表題の「無限(の事象)VS「型」の文学のこと」について語りたいです。
「はあ?」という反応だと思います。
今回、この対決が最終的結論としては、長編小説の書き方の難しさへつながっていきます、です。
*ブレイク・スナイダーの脚本の書き方『SAVE THE CATの法則』について
この間から、ベストセラーにもなっているはずの、ブレイク・スナイダーの脚本の書き方本『SAVE THE CATの法則』を読み込んでいると、
ここでも触れました。
熟考しながら読んでいるので、まだ半分も読めておりませんが、10個の法則自体のあらましは把握できました。
ある意味で、ロシアのフォルマリズムの文学運動での、物語学的な名著『昔話の形態学』に通じるものだなあ、とも感じました。
ブレイクの補足で挙げた古典的な映画名が、すごく懐かしくて映像が浮かぶので、すごく納得させられました。
プロップの説や分類は抽象的すぎて自分が創作する際には活かしにくかったので、
この現物でイメージさせる、しかも脚本(≒小説)という同じ時間芸術でも、映像・動画という時間芸術的な典型をせつめする手法は、
脳内のイメージ展開で示される点が、わかりやすさに拍車をかけているのでしょうね。
プロップは手に入れにくいでしょうから、関連書を以下に置きます。
2冊目しか読んでませんが。
今、以下の3冊のどれかも買おうかと迷っております。
図書館で借りて、内容確認してからにしようかと思います。
この手の、海外の物語創作のマニュアル本って、読むと納得できるんですが、細かすぎて、また翻訳のせいか、
リアリティが持ちにくい、保持できない欠点があります。
読後しばらくすると、消えちゃって、自分自身のモノとして身体化できないんですよね。
で、買うのを今、躊躇しているわけです。
読むのも膨大な集中力が必要なので、それこそ大学の集中講義なら、身につきそうです。
ですので、放送大学でやってもらえないですかね。笑
*鷹羽狩行の俳句の書き方本『俳句の秘法』についての連携と、「型」の演劇的な身体化のこと
上の『SAVE THE CATの法則』は一人で自分の創作感覚と対比させながら分析読みしていると、ほんと辛くてエネルギーが要ります。
ですので、ちょうど、相方から読まない本をブックオフへ出せよ攻撃の際に、ピンと来て捨てられなかった『俳句の秘法』を並行読みしました。
僕は過去、川柳・俳句・短歌の創作教室へ行き、複数の様々な講師のもとで勉強しました。
俳句も、仕上がりを無視すれば自力でできなくはないですが、現代の俳人を勉強しようと買っていた本です。
現代(といっても、’24年ご逝去)では鷹羽狩行の作品が一番好きです。
一応、歳時記は複数冊、持っていますが、季語の勉強をしていないので、本物の語感イメージが分かってはいません。
季語二つがダメという感覚には、正直、ついて行けません。
(だから、短歌・川柳は時々、修行で作り新聞へ投稿しますが、俳句はしません)
それでも、鷹羽狩行さんの句は上手いし、凄いと思います。
この『俳句の秘法』は、山口誓子のお弟子である、狩行さんが虚子や秋桜子など歴代の著名な俳人の代表作をその勘所を指摘してくれるので、
チラ読み状態では捨てれなかったんですよ。
その解説文自体が、簡潔で俳句的な名文に思います。
(で、結果、投稿して落選した自分の川柳を、季語を入れてみて、2句、俳句に書き換えました。
こらこら。
ちょうど、国民文化祭のよさこい高知で、俳句の祭典があるので、1,000円で1組、応募しようと思っています。
あと、4-6句、作って、秀作を選び、あまりは新聞へ投句します)
で、今日の問題はここ。
作りながら、俳句の五七五の定型や有・季語の縛りは、いかにも日本的な「型」の文化で、無限の自然から切り取る手段・メソッドだと気づきました。
(思えば、僕は20代の頃、格闘技に夢中で、一応、糸東流空手初段、フルコンタクト系も少し齧りました。
合気柔術の古武道も少々できます。
もう忘れかけてますが。
あれらも「型」の文化。
無限の攻撃から、どう守り、どう攻めるかの)
デッサンを描く際などの美術系も、自分流の「型」がありました。
詩を書く際も、自分流の「型」を編み出しています。
小説も、このブログで延々と触れているように、何十と「型」を編み出してますが、それが、特に長編小説ではちゃんとまだ機能していない。笑
その原因を、今日の観点から考えると、100-300枚の原稿用紙の世界は、元々の自然(外界)の持つ無限性に近いからなんでしょうね。
このわかりやすい例は、音楽音痴の僕が印象に残っている、音の知見です。
ドレミファソラシドの音階は、無限にある自然界の音を「音階」にして、雑音を切り捨てたものだ、という考え方なんです。
それって、「ドレミの型」による切り出しだし、無限な自然界への、有限化による対抗手段ですよね。
それって、五七五と季語による、自然界を切り出す俳句と同じじゃないですか?
なら、小説やストーリー展開においても、このブレイクの『SAVE THE CATの法則』をヒントに自分流の、有効な「型」に転換して補強すれば良くない?
これが、延々と書いた結論です。笑
僕は今、詩はちゃんとあるレベル以上は書けるし入賞するし、掲載される。
俳句・短歌・短編小説もそこそこで、時々、地方新聞や地方コンクール・レベルなら入選・入賞できる。
でも、長編小説はダメダメ。
ちゃんと、使えるシンプルで有効な「型」を、自分の文章感覚に身体化できることだよなあ、と思っています。
たぶん、『SAVE THE CATの法則』1冊で、語られているブレイクの肝の部分は、ほんとシンプルです。
第1に、10個の物語型に分析されたあれこれの付随した注意事項。
第2に、ログラインの考え方と短文的なニュアンス。
何よりも、今回、僕が身体化できそうに感じるのは演劇感覚が身体化できているから、それが基本OSになって、この二つをつなげられそうに感じるから。
今までも、その手のマニュアル化した複雑な法則本を読んでも、結局、溶けて消えちゃいましたからね。
さらに、この俳句的な鷹羽狩行の感じ方・切り込み方とリンクした知見になったから、詩を書く際にも、微かに連携できそうにも感じます。
実地で、書くしかないですね。
急に違うこと書きますが、
僕の暗く苦しい小学校の少年期時代を支えてくれたのは、NHKの人形劇「新八犬伝」と坂本九の語りでした。
それこそ、馬琴の江戸・日本文化の「型」ベースがあります。
逍遙が、戯作文学を前近代的と攻撃した、小説とはまるで別ものなはずです。
それを「近代小説」に転換することができてないのはだから当然なのでしょうか。
いわば、18年間続く産みの苦しみなんでしょうかね。笑
よく詩は、何物にもとらわれない「自由」な文学だ、詩の書き方は「自由」だ、と酔いしれる意見があって、
僕が最も苦手とする知見です。
野球も、ストライクだろうがボール球だろうが、どんな球でも打つ「自由」が確かにあるんですが、ちゃんと打席めがけてきた球を打つスポーツですよね。
無制限にどこへ投げても「自由」なスポーツじゃない。
僕には、「自由」の言葉に酔いしれる詩人は嫌です。
それに詩を書く初心者は騙されると、自由に書く「才能」が必要だなんて言われそうな、才能天授説へ結びつきそうなので、怖いです。
それって、考えて努力しないでよい言い訳になりませんか。
「書け! 書くんだ! ジョー」
(団塊の世代の好きな「明日のジョー」のパクリ)
根性で、量を書けばなんとかなるって幻想ですから。
学ぶこと、考えることだと思います。






