昨日、3/21のアクセス数が332でした。
(なぜか順位45位……信じられないぐらい低い順位ですが。
普通は20位以上な気がします。
直近で調べたら、3/15(日)はアクセス数276で23位何ですけど。
なぜ45位? 謎だ)
300を超えたのは、’25年10/31以来の半年ぶりぐらい。
最近のAmebaブログは、明らかにアクセス数が減っているから、もう300越えは二度とないんじゃないか、と思ってました。
(’25年の1-12月は、33回も300越えがありましたから)
意外です。
普段170ぐらいで、一昨日の3/20は114でしたからね。
最近は、たまに急に伸びても270まで、でしたから。
原因は、放送大学ネタで、継続入学の件で、マニアでも意外に関心事だったからでしょうか。
300越えるのは、おそらく、これが最後かもしれませんね。
とにかく、皆様、どうもありがとうございます。
できれば、今後ともよろしくお願いいたします。
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さて、
今日は、本来の、長編小説の創作関係のディープなマニアックな話になります。
長編小説を、その作品世界で「領域展開」しようとすると、全くステージの造りが違う、と今は感じています。
エンタメ系と、純文学系では。
だって当然ですよね、入る「劇場」も違うのなら、視聴する側の「観客層」も違うから。
まあ、演歌とロックは違うから、それらを同じ日本語じゃんか、と括ると無理があるよね。
さて、長編小説の書き直しをススっと仕掛けて、一時通弾中です。笑
いつもの【展開の呪縛】で書いてそうだから。
深緑野分さんの短編集『オーブランの少女』の短編「仮面」の冒頭を見本読みしていたら、完全に外形描写と読み手への配慮情報の入れ方の宝庫だった。
これだけを模倣し導入をしただけで、元の落選作が変わることがわかる。
とにかく書いてみて、あとから書き換えるべきか、迷ってしまう。
実際、外形描写を語り手として、目の前でページを開く読み手のために「見せる映像だ」と思って意識して、絵を描くように書いてみた。
と、全然違う。
今までの文は、書き手の自分だけに見せればいいだけの映像だったんだ、と気づく。
1文、1文が読み手のために置いている感覚が今、ある。
9枚目あたりまでは来て筆を置く。
このまま書いて、自分としてはよくなるけど、でも、このまま無難に直しても、きっと入賞はおぼつかない。
新要素が必要だな。
おそらくは、ストーリーを変えるゲーム・チェンジャーが要るのだろう。
ともかく、この3月の深緑流の小説創作・発想作法といい、
1月の三浦しをん式のリレー中継エンジンの型による【出来事葛藤による人物群渦ごとの展開変化】、
2月の「初心者のための演劇講座」からの「シーンを舞台化して捉えるための身体性感覚で向き合う観客想定」、
奥憲介先生からの擬似運命化の【こんな感じ羅針盤】、見えないゲシュタルト表現世界ので航法がいっぱい手に入ったのは確かだ。
(よく考えると、深緑さんは12/24の日に、相方と観に行った、キムタク・倍賞千恵子主演の映画「TOKYOタクシー」での予告編で見た、
アニメ『この本を盗む者は』の原作者としての発見からなんですよね。
これも不思議なシンクロニシティな出来事。
必ず原作を探したり、買ったりはしない。
いや、ほとんどそうしたことはない稀なこと。でも、何かピンと来たんだよね。
さらに、それをnoteで探す発想も、ほとんどないのに。
たまたま、やった、レアな行動でした)
それらは作家の某Sさんの繰り返し口にする「国語力」とは、全く別物の力であることは500%確かだ。
ある種の、抽象化感覚の一部な気がする。
Sさん、彼は目の前のことしか見ていない気がする。
そいれはエンタメ系作家だから無理ないことか。
また、純文学的な用法とは帰着点が異なる気がするんだよね。
それは、俳句と現代詩が違うのと同じくらい距離がある。
そうそう。
それで、今日、冒頭に書いた「領域展開」する場所がステージが違うんだよね、と言う結論に達したわけです。
読み手ファーストだと言うことは、客層が違うと書き方が真逆になる気がする。
去年12月までの僕とは、ほんと「別人28号」と呼ばれても不思議がない気がする。
(古い! 横山光輝原作『鉄人28号』のパクリです。
いや、「哲人28号」になるべきか。
鉄人が壊した街は、神戸なんですよね)
これらのマンガを読んでいた少年時代とは、別人になったことだけは確かだ。
充分、「よく頑張りましたね」と、少年時代の僕は褒めてくれそうですが、いや、まだ満足しないぞ。笑
とにかく、どのスキルももっともっと作品を書いて、身体化しないといけない。
このままじゃあ、スッと消えて溶けちゃいそうだから。




