昨日は臨時休業だったのですが、少しだけ過去の芥川賞受賞作を読み、その選評を熟読したぐらいで、
後は、ぐだぐだで過ごし、行こうかどうか迷い続けたジムへも、銀行へ紙通帳復活の申請も、放送大学への学割申請も行きませんでした。
今日も休みだったので、「明日(つまり、10/1・今日のこと)、行けばいいか」とサボって怠惰なぐだぐだに。
電子書籍で、「異世界おじさん」他のマンガを買って読み耽ってしまったのです。
ところが、就寝間際に、奇跡のようないいアイデアが天啓として降りてきました。
前記の芥川賞の解析作業は、実働2時間ぐらいで、大部分は書類の作成で、本体の読みは40分ぐらいだったのに、
1日のほとんどを、異世界マンガをへの夢という不届者な行動で、ふとガリレオ湯川教授・福山くんのような、閃きを、
送ってよこす、文学の神様の気まぐれ猫な行動に、驚くやら、感謝するやら、です。
それに基づいて、群像文学新人賞70枚を書いてみたいと思います。笑
でも、その某作からは、別にパクった内容では全然なく、アイデアそのものはその作品とはほとんど無関係です。
「そうそう、これこれ、小説の書き方、枠なんて、どうでもいいよね」
と、それを確認する起爆剤になっただけなんです。
ですので、名前を挙げてもいいんですが、「えっ! 完成作がこれかよ、全然、枠内じゃん」と言われると恥ずかしいので、書名はあげません。www
その作は10年以上前の受賞作です。
きっとマニア以外は、知られていない作家。
たまに、文芸誌で新しい作品が載る寡作な方ですね。
その受賞時には、僕は小説は純文学系も取り組んでいるものの、まだ詩が全く書けなかった頃ので、
その受賞作の、ほぼストーリー展開を無視した、とんでもない変な読解トラップのような文体の小説についていけませんでした。
(これだけで、書名はわかる人にはわかる。笑)
たぶん、芥川賞の長い歴史の中でも、1位と言っていいぐらいへんちくりんな文体の作品ですから、その感想は当然です。
ところが、詩を書くようになった人間からすると、すごく気になる文体、解明したい小説でした。
それでも、バッタモン意識は拭えずにいたんですが、今回、大江健三郎的な背景アプローチ、つまり、〈書いてないことを読む意識〉で読むと、
すごく面白い、と思ってしまいました。
同じ効果を狙っても、僕なら全く違うアプローチをするな、とイメージできてしまいました。
たぶん、この作家さんは詩を書かないと思います。
なら、詩を、現代詩を書く人間としてできることはなんだろう、と僕は考え、実行することにしました。
それだけの〈企み〉だと、単にワン・イシューな実験作になるので、あと、二つほど〈企み〉を盛り込み、
文体が刺さらない(=関心がない)方にも愉しめる小説にしようと思います。
すごく〈遊び心〉の入ったものなので、思いっきり、書き手である僕も楽しんで書いてみます。
いつもの苦行する呻吟書きとはまるで違いますので。笑
もし、うまく書けたら、次の太宰治賞でも、そのエッセンスを少しだけ取り込んだ、正統派のストーリー展開作品にしてもいいか、と考えています。
それは、この群像文学新人賞を書き上げたら、見えてくるだろう、と予想しております。
実は、これも、ここ2・3日、行っている、一連の【芥川賞そのまま獲っちゃうぞ作戦】の一環なんです。
が、実はこの作戦自体の発想やネーミングは、僕自身は古く10年以上前から構想しておりました。
芥川賞には、二つの大きな流れがあることは、文芸春秋社の社員の方々とかの回顧本で明らかにあされており、
少し文学に詳しい方なら、ご存知ですよね。
一つは、【小説の枠内で文体を極める流れ】です。
イメージとしては、谷崎潤一郎的な個性的な文体を駆使する、正統派の流れ。
これは王道ですが、当然、難しい。
それこそ生まれながらにしての才能がいるんだと思っています。
もう一つが、【小説の枠を揺り動かし、その外へ少しはみ出す流れ】です。
いわゆるヘンチクリンな、とんでも小説の類いで、一般人が読むと「なんじゃこりゃ?」と叫びたくなる作品です。
イメージとしては、さっきの某作品は典型で、他は吉村萬壱の『クチュクチュバーン』(’01年文學界新人賞)や、川上未映子『乳と卵』(’08年138回芥川賞)なんかが、その系統かと思っております。
無論、これはこれで、それこそすごい才能の煌めきが必要なのは間違いありません。
常人には無理だ。
自分が、詩を書けるようになる前は、そう思っておりました。
でも、詩を、特に現代詩を書き始めると、散文での異常が、韻文での日常なんですね。
川上未映子さんが、果たしてどの程度まで深く詩界のことや現代詩について深く理解されているかは、正直、不明です。
(関西の詩界の某御大の方から、お聞きしました。
これは別段、彼女の才能を否定しているのではなく、詩の位置付けは彼女の優れた文学資質の中で、小説よりかなり低いんじゃないかと感じています。
第2詩集は出ませんし、詩を現在、書かれていない感じに見えますから。
詩って、いざ、書けるようになると、呼吸とおなじで、定期的に書かないと、息苦しくなるんです。
自分が詩を書くまでは、予想外なことなんですが、すごく身体性と直結してしまっています。
僕もせっせと小説モードで書いていても、突発的に詩の言葉を書く衝動に襲われます)
もうお分かりだと思おうのですが、
僕の、この【芥川賞そのまま獲っちゃうぞ作戦】は、詩のモードで小説を書いてしまうことです。
そうすると、自然と【小説の枠】が揺れちゃうんですね。
だから、意図してというよりは、その枠の揺らぎを楽しみながら書いたら、芥川賞も自然と獲れるかな、と考えています。
ずっと、10年近く温めてきた、この作戦なんですが、自分の自然体で臨むと、あの手この手でいろいろと予想外なアプローチができるんですね。
不思議です。
大江健三郎という存在を媒介にしただけで、それまでと激変しました。
かつ、書くアプローチが見えました。
これはきっと、僕が10年以上、長編小説の書き方、純文学小説の書き方がわからなくて、実にさまざまな失敗を重ねて、
書けるポイントとかけないポイントを見つけてきたから出来ることなんでしょうね。
現在の僕自身、書き方はわかったものの。まだどういう作品を自分が書くことしているか、よくわからないんですよ。
そんな不器用な僕だから、できることがあるんでしょうね。
で、一方、【小説の枠内で、純粋に読み手を楽しませる】作品も描きたくなる衝動もあって、
それが、もう片方のミッション【集英社オレンジ文庫・短編小説新人賞】の実施につながっています。
ところで、例えば、以下のサイトはご存知ですよね。
なんか、途中から、芥川賞研究になってしまいました。笑


